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深層の滓(しんそうのおり)  作者: 麗 未生(うるう みお)
第四章 混沌(こんとん)

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混沌1-2-①:静寂を破る、父の逮捕の報せ

   二.


 今日は久し振りに図書室へ寄ってから帰ることにした。小学校の頃から、和は学校の図書室や町の図書館が好きだった。母と二人で暮らしていた頃は、欲しい参考書があっても買ってほしいとはなかなか言い出せず、自然と足が向いた場所でもある。紙の匂いと静かな空気に包まれていると、胸の奥に溜まった澱のような感情が少しずつ薄れていく気がした。


 特に山下が家に来るようになってからは、家に居場所がなくなった。彼と二人きりになる時間を避けるため、夏休みでさえ殆ど図書館に通い詰めていた。冷房の効いた閲覧室の隅に座り、時間が過ぎるのを待つように本を読んだ日々を、身体が覚えている。


 叔母の家で暮らすようになってからは、欲しい参考書は何でも買ってくれる。経済的な理由で図書室に通う必要はなくなった。それでも足が向くのは、単純に読みたい本があるからだ。明星学園の図書室は、小学校や中学校のそれとは比較にならない。町の公営図書館よりも立派なのではないかと思うほど、膨大な蔵書で溢れている。初めて足を踏み入れた時、思わず息を呑んだことを今でも覚えている。


 和は読書が好きだ。本を開けば、その世界に引き込まれる。頁を捲る間だけは、現実の嫌なことを忘れていられる。自分ではない誰かの人生を追体験していると、心が少し軽くなる。


 図書室に寄ると言うと、寧々は先に帰った。彼女はあまり読書に興味がないらしい。和も本は一人で静かに読みたい性分なので、無理に付き合わせるよりその方が良いと思っている。静寂の中で文字を追う時間は、誰にも邪魔されたくなかった。


 今読んでいるのは山崎豊子の『華麗なる一族』である。四年前にドラマが放映されていたらしいが、和は見た記憶がない。その年は母が亡くなった年でもある。日常が崩れ落ち、感情の整理も付かないまま時間だけが過ぎていった。テレビ番組を楽しむ余裕など無かった。


 面白いかと問われれば、正直なところ返答に困る。主人公の万俵大介という人物は、妻と愛人を同じ屋敷に住まわせるという常軌を逸した男だ。和には到底理解できないし、好感も持てない。それだけで読むのを止めてしまおうかと思うほど腹立たしかった。


 それでも物語は強い力で読者を引き寄せる。読み進めるうちに、頁を閉じることが出来なくなる。特に息子の万俵鉄平には惹かれるものがあった。正義感が強く、真っ直ぐであるがゆえに不遇な立場に置かれる。本人に非はないのに、実の父に冷遇され、理不尽な理由で追い詰められていく。その姿に、和は自分を重ねてしまう。抗う術を持たず、大人の事情に振り回される感覚が、どこか似ている。


 気付けばすっかり読み耽っていた。図書室の閉室を告げる放送が流れ、ようやく現実に引き戻される。借りて帰ることも出来るが、和は家に本を持ち帰らないと決めている。読み始めると止まらなくなるからだ。もし持ち帰れば、朝まで徹夜してしまうだろう。頁を閉じる自制心に、自信がない。


 本を元の棚に戻し、静まり返った校舎を後にする。外の空気は少し冷たく、日が傾き始めていた。家に着くと、叔母が直ぐに玄関まで出て来た。普段は台所にいることが多いのに、今日は様子が違う。顔色が優れず、落ち着かない様子で立っている。


「叔母さん、どうかしたの?何かあった?」

「和ちゃん……」


声が掠れている。言葉を選んでいるようだった。視線が僅かに揺れる。


「何?」

「夕方、ニュースでね……」

「ニュースって?」


胸の奥がざわつく。嫌な予感が静かに広がる。


「岡野さんが……あなたのお父さんが、逮捕されたって……」

「え……?」


父親のことなど、とうの昔に忘れたつもりでいた。その名を思い出すことすらなかった。記憶の奥底に押し込め、触れないようにしてきた存在だ。


「逮捕……って?」


言葉の意味は理解できるのに、現実味が伴わない。頭の中で何度も反芻する。逮捕という二文字が、ゆっくりと重みを持って胸に沈んでいく。和は無意識に玄関の上がり框を見つめた。

お読みいただきありがとうございます。

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