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深層の滓(しんそうのおり)  作者: 麗 未生(うるう みお)
第四章 混沌(こんとん)

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混沌1-1-②:母の影を引きずる娘ー掴めぬ真実への微かな期待

 依智伽に限っては、単純に犯人逮捕を喜んでいる姿がどうしても想像できない。母の死を笑みを浮かべて語っていた子だから。捕まったという報せは終わりではなく、新たな揺らぎの始まりなのかもしれない。浩太は消えたニュース画面を見つめながら、形の定まらない不安を静かに抱え込む。


――大っ嫌いだった――


 依智伽は梗子のことを、はっきりとそう言った。あの時の声音を思い返しても、そこに虚勢や強がりは感じられなかった。少なくとも浩太には、嘘には思えなかった。


 梗子は決して良い母親ではなかった。うちに来た時は、依智伽の面倒をきちんと見ていると父に誇示するような態度を取っていたが、依智伽に向ける視線や言葉の端々から、母親としての愛情を感じたことは一度もない。表面だけを取り繕い、実際には娘を自分の道具のように扱っている印象すらあった。シングルマザーで苦労しているなどという話は父は鵜吞みにしていたようだが。


 依智伽も、自分が母親に愛されていないという事実を、幼いながらに悟っていたに違いない。昔、梗子に連れられて家へ来ていた頃の依智伽は、どこか怯えたように俯きがちで、常に周囲の様子を窺っていた。小さな肩を竦め、僅かな物音にさえ過敏に反応していた姿を、浩太は今でも覚えている。


 だが梗子が死んで、去年うちに来た依智伽は別人のようだった。視線は真っ直ぐで、言葉も淀みがない。妙に大人びていて、年齢にそぐわぬ冷静さを纏っていた。そして何より、あの笑い方が忘れられない。口元は笑っているのに、目の奥が少しも笑っていない。(いびつ)で、感情の抜け落ちた笑顔だった。しかし皮肉なことに、それは梗子の笑い方と同じだった。


 依智伽はもう母親に愛情を求めることを諦めていたのではないか。期待すれば裏切られる。その痛みを繰り返すくらいなら、最初から何も望まない方が良い。そんな諦念が、あの静かな目の奥に沈んでいたように思える。


 だからこそ、母が死んでも彼女は取り乱さなかった。悲嘆に暮れる娘というより、遠い出来事を受け止める他人のように見えた。母親を失ったばかりの子供には到底見えなかった。もしかすると、梗子はずっと前から依智伽の中で死んでいたのかもしれない。生きてはいても、心の中では既に終わっていた存在だったのだろう。


「依智伽ちゃん、どこかに里子に貰われたのよね」


舞奈が遠慮がちに口を開く。


「そう聞いているけど」

「じゃあ、今は幸せに暮らしているのよね」

「多分、そうだと思う」

「……そうよね」


舞奈の声には、どこか安堵が混じっていた。あの時、依智伽を引き取る話が出た際、舞奈は反対した。その選択が正しかったのかどうか、今も心のどこかで引っ掛かっているのだろう。浩太は何も言わなかった。過去の判断を今更蒸し返しても意味はない。それでも、もしあの時違う決断をしていたらと考えないわけではない。


 それにしても、梗子を殺した男と梗子は本当はどのような関係だったのか。なぜ殺したのか。衝動的なものだったのか、それとも長年の怨恨か。梗子なら他人の恨みを買っていても不思議ではない。自分の欲しいもののためなら手段を択ばず、それを悪いことだとすら認識していなかった。もし本当に浩太の母を殺していながら平然と家に出入りしていたのだとしたら、その神経は常人には測れない。


 ニュースでは詳細は語られていなかった。だが逮捕に至った以上、何らかの証拠があったのだろう。その男が梗子と古い知り合いだというのなら、浩太の母の件についても、何か知っている可能性があるかもしれないという疑念が湧き上がる。出来ることなら直接問い質したい。しかし今の浩太にそれは不可能だ。面会など叶うはずもない。浩太は何の力もないただの高校生だ。


 ふと、この間家を訪ねて来た検事、滝沢桃香の顔が脳裏に浮かぶ。冷静で、それでいて真っ直ぐな目をしていた。彼女なら、犯人から何かを聞き出せるかもしれない。もし桃香が本気で、浩太の母を殺したのは梗子だと疑っているのなら、事件の裏を探ってくれる可能性はある。


 大人など信用できないと、ずっと思っていた。父も、周囲の大人も、肝心な時に何も守ってくれなかった。だが桃香にそうじゃないかもしれない。あの無駄に期待を持たせない話し方が浩太にそう思わせた。期待は裏切られると知っている。それでも、僅かな光に縋りたくなる自分を否定できない。


「お兄ちゃん、携帯鳴っているよ」


舞奈の声で我に返る。手元の携帯が震えていることに、今まで気付かなかった。


「え、ああ……」


慌てて通話ボタンを押す。


「もしもし、浩太?」


朝陽の声だった。


「ああ、うん」

「あの女を殺した犯人、捕まったみたいだね」

「うん、そうらしい」

「浩太のお母さんのことも、何か分かると良いな。この間来た検事さん、動いてくれるかな」

「どうだろうな。その犯人が何か知っているとも限らないし」


朝陽も同じことを考えていたのだ。だが同時に、過度な期待は危ういという思いも湧き上がる。希望を抱くたびに打ち砕かれてきた記憶が、無意識に歯止めをかける。


通話を続けながら、浩太はテレビに視線を向ける。別のチャンネルで再び梗子の事件が報じられていた。例の男の顔写真が大きく映し出され、その下に名前が表示される。


――岡野保人。


無機質なテロップの文字が、やけに鮮明に目に焼き付いた。その名前が、これから自分たちの過去とどう結び付くのかは、まだ何も分からない。それでも確実に、何かが動き始めている気配だけは感じていた。

お読みいただきありがとうございます。

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