陰影2-5-⑲:届かない痛みー揺らぐ記憶の欠片
「……いえ。こちらこそ、取り乱してしまいました。未だに事件の話をされると、どうしても冷静ではいられなくなります」
公洋は自嘲気味に小さく息を吐く。
「ですが、須藤さんが興味本位で尋ねているわけではない事は承知しています。ですから、私の知っている事は全てお答えします。ただ……」
言葉が途切れる。
「私には、朱音と莉子がどうしてあんな目に遭わなければならなかったのか、本当に分からないのです。理由が思い当たらない。恨みを買うような事をした覚えもない。何一つ……何一つ、心当たりがないのです」
その表情には、憤りと遣り切れなさが色濃く滲んでいる。何も分からない事が、何も出来なかった事が、彼の苦悩を更に深めているのだ。
「何か、変わった事はありませんでしたか。事件の前に、朱音が何か気にしていたとか」
鳴海は慎重に問い掛ける。公洋は悔しそうに首を横に振った。
「ありません。もし少しでも不審な事があれば、私は真っ先に警察へ話していました。ですが、本当に思い当たらないのです」
当然だろう。手掛かりらしきものがあれば、とっくに提供しているはずだ。だからこそ、何も掴めない現実が彼を責め続けている。
「東京本社勤務が決まった時、朱音は喜んでいました」
公洋の声音が僅かに柔らぐ。
「これで両親にもっと孫の顔を見せられると。寧々や莉子の成長を近くで見せてあげられると、嬉しそうに話していました」
「ああ……それまでは名古屋にいらしたのですよね」
「ええ。就職してすぐに名古屋勤務になりましたから。あの頃は、東京を離れる事を望んでいました」
公洋は遠い記憶を辿るように続ける。
「当時の朱音は、東京に居続ける事を辛がっていました。きっと、環境を変えたかったのでしょう」
嫌な思い出のある場所から、少しでも離れたかったのかもしれない。新しい土地で家庭を築き、穏やかな時間を重ねる事で、漸く傷も癒えかけていた。だからこそ、再び東京へ戻る決断が出来たはずだ。その矢先に、あの事件が起きた。
(……?)
その瞬間、鳴海の思考の奥で何かが引っ掛かった。見失っていたパズルの欠片が、唐突に視界の端に現れたような感覚。確かに何かが繋がりかけた。
(何……?)
鳴海は無意識にこめかみに手を当てる。輪郭を掴みかけては霧散する。焦燥だけが残る。
「どうかしましたか」
公洋が不安げに尋ねる。
「あ、いえ……今、何か思い浮かびそうになったのですが、はっきりしなくて」
「それは朱音に関する事ですか」
「そんな気がするのですが……申し訳ありません。自分でも分かりません」
「そうですか……他に、何かお聞きになりたい事はありますか」
「あ、えっと……」
思考はまだ先程の違和感を追い掛けている。鳴海は呼吸を整え、改めて公洋を見据える。感情に流されず、事実を一つずつ積み上げるしかない。そう自らに言い聞かせながら、次の問いを探していた。
聞きたい事は、まだ幾つもあるように思えた。だが、何をどう切り出せば良いのか分からない。問いは胸の内に渦巻いているのに、形にならない。焦燥だけが残る。
「では、私はそろそろ会社に戻らなくてはなりません。また何かありましたらご連絡下さい」
公洋はそう言って立ち上がった。背広の皺を整えながら、少し躊躇うように言葉を続ける。
「宜しければ、またうちへいらして下さい。寧々の話し相手になってやって頂けると有難い。私も……もう少し、寧々と話す時間を取るよう心掛けます」
その決意は、どこか頼りない。それでも確かに前を向こうとする意志が含まれていた。
「分かりました」
鳴海は頷く。公洋は軽く会釈をして帰っていった。鳴海は暫くそのまま座っていた。目の前のコーヒーはとっくに冷めていたが、口に運ぶ。公洋の姿が見えなくなって数分が過ぎた頃に、鳴海の頭の奥で、ある言葉が不意に蘇った。
――ずっと探していたモノを手に入れた――
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