陰影2-5-⑫:壊された幸福ー残されたのは……
「新しい命の誕生を無条件に喜んでいる寧々と同じように、私達も素直に喜べば良かったのです。愛情は奪い合うものではなく、増えていくものだと、あの子が教えてくれました」
その言葉は静かだったが、確かな実感を伴っていた。鳴海は、二人が辿ってきた道のりを思い、深く頷いた。愛は限られた器ではない。注げば減るのではなく、注ぐ程に広がっていくものなのだと、寧々という存在が証明してくれたのかもしれない。
公洋の言葉に耳を傾けながら、鳴海は静かに思う。それでも、それは決して簡単な事ではなかった筈だと。人の心は理屈通りには動かない。真実を知らない幼い寧々が無邪気に妹や弟の誕生を心待ちにするように、大人も同じように迷いなく喜べるとは限らない。寧々を思えばこその迷いであり、不安だったのだろう。その根底に寧々への確かな愛情がある事は疑いようがない。
それでも、どうしてこの二人にここまでの試練が与えられるのかと、鳴海は思わずにはいられない。罰せられるべき人間は、決してこの二人ではない。なのに、なぜ彼らばかりが傷を負わなければならないのか。世の中はいつの時代も善人が苦しむように出来ている、そんな言葉を昔どこかで聞いた覚えがある。
善人だからこそ苦しむのだと、誰かが言っていた。何故なら、悪人は苦しむという心がないから、と。その時、鳴海は善人とは何と割に合わない存在なのだろうと思った。そうだ、あれは確か中学時代の教師の言葉だった。公洋の話を聞いている内に、忘れていたその記憶が不意に蘇る。この後、公洋の身に起こった出来事を思えば、その言葉は一層重く胸に刺さった。
「生まれて来た莉子を見た時、この世にこんなに可愛い子がいるのかと本気で思いました。親馬鹿だと言われればそれまでですが、それでも本心でした」
公洋は僅かに目を細める。
「新生児室に並んでいた赤ん坊の中で、寧々が『妹が一番可愛いね』と言ったのです。その言葉を聞いた時、私は胸が熱くなりました。ああ、この子も私と同じように感じているのだと。心は繋がっているのだと思いました」
当時のことを思い出しているのだろう、公洋が懐かしそうに目を細める。
「朱音も同じでした。二人の様子を見ている内に、私達の懸念は少しずつ薄れていきました。本当に、二人共同じように可愛いと感じたのです。綺麗事に聞こえるかもしれませんが、あれは紛れもない実感でした。理屈ではなく、ただ自然にそう思えたのです」
鳴海は静かに頷く。そこに嘘はないと感じる。ただ、それを完全に理解出来るかと問われれば難しい。その立場に立たされた者にしか分からない感覚があるのだろう。否、同じ立場に置かれたとしても、同じ答えに辿り着くとは限らない。人の心は千差万別だ。後になってから、なぜあの時ああ感じたのかと自問する事も少なくない。自分の心でさえ、常に把握出来るとは限らないのだ。
「本当に、理屈ではありませんでした。朱音がいて、寧々がいて、莉子がいる。あの頃の私は、それだけで満たされていました。本当に幸せでした」
そう言って、公洋は唇を強く噛み締める。声は落ち着いているが、その奥に押し殺した痛みが滲む。
「ですが……その幸せは、ある日突然壊されました。何の前触れもなく、容赦なく」
空気が重く沈む。やっとの思いで築き上げた幸福だった。その現実が崩れ落ちた時、公洋はどれ程打ちのめされたのだろう。どれ程世の中を恨み、理不尽を呪ったのだろう。鳴海は胸が締め付けられる。どんな慰めの言葉も軽く感じられ、何も言えなくなる。もし自分だったら耐えられただろうかと考え、すぐに思考を止める。娘の身に、夫の身に何かが起こるなど、想像するだけで足が竦む。
「……幸いな事に、寧々は無事でした……」
暫く沈黙が続いた後、公洋は徐に口を開く。その言葉は救いでありながら、同時に次に続く現実の重さを予感させる響きを帯びていた。
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