陰影2-5-⑪:愛が増えるということ
「そうして、莉子ちゃんが生まれたのですね」
鳴海は静かに問う。公洋は小さく頷く。
「はい。ただ……正直に言えば、私達はまた迷いました」
公洋は苦く笑う。その表情には、また新たな苦痛が浮かんでいた。
「産むべきかどうかで、再び逡巡したのです」
「そう、なのですか?」
鳴海は思わず聞き返す。
「ええ。もし、寧々よりもその子の方が可愛いと思ってしまったらどうしようと」
「ああ……」
鳴海は小さく息を吐いた。確かに、その懸念は理解出来る。その子は紛れもなく二人の血を引いた子だ。どこの誰とも分からぬ男の子供である寧々と比べ、より強い愛情が湧いてしまう可能性は否定出来ない。理屈ではなく、本能の問題だとさえ言える。
「そういう心配を抱くくらいなら、初めから子供など作らないという選択肢を考えるべきだったと思われますよね」
公洋は自嘲気味に言う。
「あ、いえ……」
鳴海は否定しようとするが、言葉が続かない。外から見れば幾らでも正論は言える。しかし当事者の葛藤は、そんな単純なものではないと理解できる。
「私達は、莉子が朱音のお腹に宿ってから初めて、その問題と真正面から向き合いました。それまで、そこまで深く考えた事はなかったのです。寧々は既に掛け替えのない娘でした。私達にとっては、何の迷いもなく愛しい存在だった。寧々の出生の事など、日常の中で殆ど意識する事はなくなっていました」
公洋は静かに続ける。
「それ程までに、寧々は私達の生活に溶け込んでいたのです。笑い、泣き、甘え、拗ねる。その一つ一つが当たり前になっていました。ですが、朱音のお腹に新しい命が宿ったと知った瞬間、喜びと同時に不安が生まれたのです」
言葉が重く落ちる。
「生まれて来た子供を見た時、私達は同じように、今まで通り寧々に愛情を注げるのだろうか。無意識の内に差を付けてしまわないか。そんな事は、もっと早く考えるべきでした。にも拘らず、私達は失念していた。余りにも大切な事を、後回しにしていたのです」
鳴海は胸の内で二人の歩みを思う。朱音は高校を出たばかり、公洋は就職したばかり。若い二人が数多の苦難を乗り越え、漸く家族になった。寧々という娘を迎え、それまでの不安を拭い去るだけで精一杯だったに違いない。夫婦としての形を築く事に全力を注いできた二人が、そこまで先を見通せなかったからといって、誰が責められよう。互いに支え合い、苦悩を分かち合いながら踏ん張ってきたのだ。
「それでも、その子を葬る事など出来る筈がありません。私達二人の間に授かった、愛すべき命です」
公洋の声に揺るぎはない。
「不安は消えませんでした。胸の奥に澱のように溜まっていました。それでも、出来るだけその不安から目を逸らし、新しい命の喜びだけを見つめようと……」
僅かに表情が和らぐ。
「そんな私達に光を与えてくれたのは、寧々でした」
「寧々ちゃんが?」
「ええ。寧々は、朱音のお腹に弟か妹がいると知ると、それはもう大喜びでした。毎日のように朱音のお腹に手を当てて、『早く生まれておいで』と囁くのです。小さな掌で、そっと撫でる姿が愛おしくて堪りませんでした」
公洋は目を細める。
「その様子を見ている内に、私達の中の不安が少しずつ解れていきました。生まれてくる子は、紛れもなく寧々の妹か弟なのだ。寧々はこの子の姉になる。その単純な事実に、漸く気付かされたのです」
声に温もりが宿る。
「何を迷っていたのだろうと思いました。二人共、可愛いに決まっているではないかと。垣根を作っていたのは、他ならぬ私達自身でした。寧々を愛している。その事実は何一つ揺らいでいない。それなのに、何を恐れていたのか」
鳴海は胸の奥が静かに震えるのを感じる。こうは言ってるが、それでも本当に不安が拭えたのか、本当に難しい問題だ。命を迎えるということは、決して綺麗事では済まされない。
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