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深層の滓(しんそうのおり)  作者: 麗 未生(うるう みお)
第三章 陰影(いんえい)

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陰影2-5-⑧:生命ー一人で背負う覚悟

 朱音はどのような思いで、それを受け止めたのだろう。産むと決心するまでに、どれほどの葛藤と戦ったのか。自分の未来を閉ざすかもしれない選択を前に、どれだけ夜を泣き明かしたのか。鳴海には想像することすら難しい。ただ、胸が締め付けられるように痛むだけだった。


「そうして、私の中にも今まで無かった感情が生まれ始めていました」


公洋の声が、静かに続く。


「朱音を放っておけない。この子を、私の手で守っていきたい。二度と誰にも傷付けさせたくない。その思いが、日を追うごとに強くなっていきました」


言葉に迷いはない。


「朱音がその子を産むと言うのなら、二人の人生を私が背負おうと考えました。父親になる覚悟があるのかと、毎日自問自答の繰り返しでした。でも父親がどんな男であっても、朱音の子供なら、朱音が守りたいというなら、私も守ると決めることは出来る。私はそう結論付けました」


一息置き、静かに続ける。


「それが私に課せられた運命だと思いました。あの川で朱音の命を救った時から、既に決まっていたのかもしれません。あの瞬間から、私の人生は彼女と切り離せないものになっていた」


鳴海は目を伏せる。もし神という存在がいるのなら、せめてあの川辺で差し伸べられた手だけは、朱音に与えられた救いだったのだろうか。だが、そもそも神がいるのなら、あのような惨い運命を背負わせはしなかったはずだという思いも消えない。救いと残酷さが、胸の内でせめぎ合う。


「私は朱音に結婚を申し込みました」


公洋ははっきりと言う。


「二人でその子を育てていこうと伝えました。私が父親になる。朱音は一人ではないと」

「朱音は、その申し出を受けたのですね」


鳴海は問い掛ける。


「いえ、そんなに簡単ではありませんでした」


公洋は僅かに苦笑する。


「断られましたから」

「そうなのですか?」


意外だった。だが、すぐに理解もする。


「想像がつきませんか。あの朱音ですよ」


公洋は静かに言う。


「私の申し出を、同情からのものだと受け取ったのです。可哀想だから結婚するのだろうと。それを受け入れることなどできないと朱音が思うのも無理はない」

「あ……」


鳴海は小さく声を漏らす。そうだ。あの朱音だ。同情で差し出された手を、素直に取るはずがない。どれほど追い詰められていても、自分の不幸に他人を巻き込むことを良しとしない。


 自分の重荷を誰かに背負わせるくらいなら、一人で耐える道を選ぶ。それが朱音という人間だった。誇り高く、真っ直ぐで、優しい少女。だからこそ、あのような惨い出来事に遭った後も、簡単に誰かに縋ることが出来なかったのだろう。鳴海の胸に、改めて朱音の姿が浮かび上がる。強さと脆さを併せ持った、かけがえのない親友の姿が。


「あの時、肉体的にも精神的にも限界だった朱音が、私にこう言いました。


『先生、そんな事を軽はずみに口にしないで下さい。今の私は藁にも縋ってしまいそうなの。でも、先生には先生の人生をきちんと歩んで欲しい。私は今、先生に凄く頼ってしまっています。けれど、先生には愛する人と結婚して、幸せな人生を歩んで欲しいのです。私の為に先生の人生を犠牲にして欲しくない。そんな事になったら、私はきっと今よりももっと苦しくなるから』


とても毅然とした口調でした。弱り切っているはずなのに、声は震えていませんでした」


鳴海は静かに息を吸い込む。いかにも朱音らしいと、胸の奥で何度も頷いた。彼女は昔から、誰よりも人の心を忖度する子だった。


 自分がどれほど傷付いていても、先に相手の未来を案じる。その性質は、あの惨事の後でさえ変わらなかったのだと思うと、誇らしさと同時に、堪え難い切なさが込み上げる。余りにも朱音らしい言葉だった。だからこそ嬉しく、そして残酷なほどに胸が痛んだ。


「その言葉で、私は完全に打ちのめされました」


公洋は当時を思い出すように目を細める。

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