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深層の滓(しんそうのおり)  作者: 麗 未生(うるう みお)
第三章 陰影(いんえい)

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陰影2-5-⑤:封じられた記憶とー逃れられない現実

「浴室に行き、自分の身体を見た時に、起こったことが現実なのだと理解したそうです。それまで無意識に否定していた事実が、そこで突き付けられたのだと」


鳴海は思わず目を閉じる。想像するだけで息が苦しくなる。突然の暴力によって踏みにじられた自分の身体を見た時、どれほどの絶望に襲われたのだろう。受け入れ難い現実を、たった一人で抱え込んだ朱音の姿を思うと、胸の奥が軋む。


「朱音は、その夜から高熱を出して寝込みました」


その言葉に、鳴海の記憶が鮮明に蘇る。確かにあった。殆ど皆勤に近かった朱音が、三年の三学期に入って三日も学校を休んだ。鳴海の知る限り、それまで欠席など殆どなかった。でも受験勉強のし過ぎで疲れが出たのだろうかと、その程度にしか考えていなかった。朱音は努力家で、時に無理をするところがあったからだ。


心配になり、鳴海は朱音の家へ電話を掛けた。受話器の向こうで、母親が「熱で魘されている」と答えた。受験目前なのに大丈夫だろうかと、危惧したことは、はっきり覚えている。だがあの時、朱音の身にそんな惨事が起こっていたなど、想像する余地すらなかった。


 登校してきた朱音の様子が、どこかおかしかったことも思い出す。小さな物音に肩を震わせ、後ろから近付く人影に過敏に反応していた。病み上がりで体力が落ちているのだろう、受験前で神経質になっているのだろうと、安易に結論付けてしまった。


 本当は、もっと違う何かがあったのに。鳴海は唇を強く噛み締める。親友だと自負していたのに、最も苦しい時に気付くことさえできなかった。その事実が、今になって重くのしかかっていた。


「熱から目を覚ました朱音は、その時の出来事を忘れてしまっていたんです」


公洋は静かに語る。その声音には、当時の戸惑いと痛みが今も残っている。


「何かがあったという感覚だけはあったようです。ただ、はっきりとは思い出せなかった。自ら考えないようにしていたところもあったのでしょう。音や暗闇に対して、異様なほど怯えていました。僅かな物音にも身体を強張らせ、灯りの少ない場所を極端に避けるようになっていた」


鳴海は黙って耳を傾ける。胸の奥がざわめき、指先が冷たくなる。


「きっと無意識のうちに記憶を封じ込めてしまっていたのでしょう。無かったことにしたいという強い思いが、そうさせていたのかもしれません。人の心には、防衛本能のようなものがあります。耐え難い現実から、自分を守ろうとする力です」


公洋は僅かに目を伏せる。


「それはよく分かります。直視できない現実から目を背けるのは、人の持つ防衛本能でもありますから」

「あ、須郷さんは精神科医でしたね。なら説明するまでもなかったですね。私はあの時、色々本を読んで調べたんですよ」

「そうでしたか……」

「でも、日が経つにつれて、封じ込めたはずの記憶が少しずつ蘇ってきた。断片的に、突然に。怖くて堪らなかったと朱音は言っていました」


言葉を区切り、息を整える公洋。


「受験当日、彼女は何も考えられなかったそうです。問題集を読んでも、意味が頭に入ってこない。解こうとしても、思考が止まってしまう。頭の中で何かを考えること自体が恐怖だったと」


公洋の声が低く沈む。


「考えようとすると、思い出したくない記憶が閃光のように脳裏に走る。映像の断片が突然浮かび上がる。それを必死に押し込める。また浮かぶ。封じ込める。その繰り返しだったと、そう話していました」


その光景が、鳴海の胸に鋭く刺さる。あの時、鳴海は朱音が殆ど白紙に近い答案を提出したと聞き、信じられない思いで問い詰めた。何故こんなことをしたのかと。彼女がどれほど努力家であったかを知っていたからこそ、理解できなかった。だが、本当は理解しようとしていなかったのかもしれない。


 何もなくて朱音がそんな行動を取るはずがないと、心のどこかで分かっていた。なのに深く考えなかった。思いやらなかった。思い返す度に、あの時の自分に怒りが湧く。誰よりも朱音を分かっていると自負していたのに、肝心なことを何一つ察することができなかった。

お読みいただきありがとうございます。

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