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深層の滓(しんそうのおり)  作者: 麗 未生(うるう みお)
第三章 陰影(いんえい)

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陰影2-4-⑲:静かな夜に揺れる思い

「相変わらず君たちは仲がいいね」

「何を言っているの。今の話、ちゃんと聞いていた?」

「聞いていたよ。だから言っている。君も桃花さんも、お互いに役割を分かっているからぶつかるんだろう。立場が違えば、見える景色も違う。それに言い合えるのは信頼しているからじゃないかな。遠慮があったら本音は出ないよ。悪い関係には見えないけどね」


天哉はそう言って、キッチンへ向かう。


「コーヒーを淹れようか。それとも少しだけ飲む?」


そう言いながら、グラスを持つ仕草をしてみせる。その柔らかな笑みに、鳴海の張り詰めていた心がわずかに緩んだ。外では事件が渦を巻き、少女の記憶は揺らぎ続けている。それでも、この小さな日常がある限り、自分は立っていられるのだと、鳴海は改めて思う。きっとこれが家族なんだ。でも結衣の家族は――。


「みーちゃんはもう寝た?」

「とっくに寝たよ。今日は絵本を二冊読まされてね。満足したらすぐ夢の中だ」

「そう。じゃあ飲む!」


鳴海は小さく息を吐きながらリビングのソファーに腰を下ろした。背もたれに体を預けた瞬間、張り詰めていた神経が少しに解ける。天哉はその様子を横目で見て、柔らかく笑いながらキッチンへ向かった。


「はいはい。では、奥様のために一杯ご用意しましょう。今日は少し強めにする?」


その声音には、揶揄いと労わりが半分ずつ混ざっている。


「お任せするわ」


鳴海は目を閉じ、こめかみを指で押さえた。ついさっきまで電話口で応酬していた緊張が、まだ身体の奥に残っている。グラスに氷が触れ合う音が、静かな部屋に澄んで響いた。その規則的な音を聞いているだけで、心拍が落ち着いていくのが分かる。


「はい、どうぞ」


差し出されたグラスを受け取りながら、鳴海は小さく笑った。


「ありがと」

「どういたしまして。奥様は日々、重たい心と向き合っているんだから。家では少しぐらい甘えてもらわないと」


天哉は向かいの椅子に腰を下ろし、自分のグラスにも口をつける。


「あなただって同じでしょう。何十人もの生徒の将来を預かっているのよ。進路で悩む子、家庭で問題を抱えている子、みんなあなたを頼りにしている。それなのに、私はいつも助けてもらってばかりね」


鳴海は素直な気持ちをそのまま口にした。天哉は穏やかに首を振る。


「役割が違うだけだよ。君は心の深いところに潜っていく仕事をしている。俺は、まだ形になっていない未来を一緒に探す仕事だ。比べるものじゃない」


その言葉に、鳴海の胸の奥が温かくなる。この時間があるからこそ、明日もまた向き合える。そう思える瞬間だった。


 ふと、別の顔が脳裏に浮かぶ。朱音の面影だ。あの穏やかな笑顔を思い出すたびに、胸のどこかが締めつけられる。もし運命が違っていたなら、朱音にもこうした夜があったはずだ。家族と他愛のない会話を交わし、静かにグラスを傾ける時間が。


 この前会った朱音の娘、寧々の姿も重なる。母と妹を失い、異国へ渡った少女は、どんな思いで日々を過ごしてきたのだろう。言葉も文化も違う土地で、自分の居場所を探しながら生きてきたはずだ。その強さの裏に、どれほどの孤独が積み重なっているのか。


 鳴海は近いうちに、公洋に会おうと考えている。朱音の夫であり、寧々の父でもある男。鳴海たちの推測が当たっていれば、彼は寧々が自分の実の娘ではないことを知っている。それでも父として育ててきた。その選択の重みは、どれほどのものだったのだろう。だが公洋は知っているのだろうか。寧々の本当の父親が誰なのか。もしそれを知ったら……。


 考えることが山積みだ。まずは目の前の問題から向き合おう。改めてそう思う。有田結衣、今はあの子の記憶と心を守ることが最優先だ。それでも、寧々のことが頭から離れない。過去に引き裂かれた家族の物語が、今もどこかで続いている。


グラスの中の氷が、ゆっくりと溶けていく。


 鳴海は静かに息を吐いた。守るべき心がいくつもある。その一つ一つに向き合うために、今はこの静かな夜を、少しだけ自分のものにしておきたかった。

お読みいただきありがとうございます。

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