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深層の滓(しんそうのおり)  作者: 麗 未生(うるう みお)
第三章 陰影(いんえい)

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陰影2-4-⑰:玄関に立っていた影

「あなたが……お母さんを?」


鳴海は語尾を強めず、静かに問う。結衣は布団の端を握り締め、何度も首を横に振る。


「分からない……分からないの。気が付いたら、周りが燃えていて。血だらけのお母さんが私に手を伸ばした姿勢で床にうつ伏せになっていて……私の手にナイフがあって……。お母さんが体を引きずるみたいにして、私に迫ってきて……私、外に……私……私……!」


呼吸が乱れる。言葉が断片化している。記憶の連続性が途切れている典型的な様相だ。鳴海はその様子を観察しながら、虚偽の兆候がないかを慎重に探る。意図的な作為の匂いは薄い。少なくとも今この瞬間の結衣は、真実を掴もうともがいている。しばらく布団に顔を埋めていた結衣が、ゆっくりと顔を上げる。瞳は怯えに満ちている。


「私が……私が、お母さんを殺したの……?」

「何があったか、はっきり覚えていないの?」


結衣は目を閉じ、眉を寄せる。


「お母さんが追いかけてきて……ナイフを振り上げて……。私、殺されるって思った。怖かった。ずっと、もう死んだ方がましだって思っていたのに。万智があんなことをして、家はめちゃくちゃになって、お父さんもお母さんも変わってしまって。何もかも嫌で、消えてしまいたいって思っていたのに……あの時、死にたくないって思ったの。生きたいって思ったの。変だよね」


鳴海はゆっくり首を横に振る。


「変ではないわ。生きたいと思うのは自然なことよ。あなたの命を奪う権利は誰にもない。例えそれが母親であっても。その瞬間、あなたは自分を守ろうとした。それは本能であり、当然の反応よ」

「本当に……?」

「ええ。本当よ」


結衣の表情が僅かに緩む。


「じゃあ……やっぱり私がお母さんを殺したのかな。生きたいって思ったから、お母さんに殺されたくないって……」

「少しずつでいい。あなたは、その時どうしたのか思い出せない?」


結衣は身体を起こし、ベッドの上で目を閉じる。記憶を辿るように、言葉を探している。


「何か、近くにあった物を掴んで……投げた。何だったか分からない。でも、それがお母さんに当たった。お母さんが一瞬よろけて……それで、私はまた逃げた。玄関へ向かった。逃げなきゃって思った。こんなところで死にたくないって」


声が震える。


「でも玄関の近くで、滑ったの。床が……血で。足が滑って転んで、頭をぶつけた。そしたら、目がぼんやりとかすんで……」


鳴海は、結衣が発見時に確認された左前頭部の打撲痕を思い出す。説明と矛盾はない。


「それで?」

「足を……掴まれた気がした、お母さんに。でも、段々意識が遠くなっていって……暗くなって……」

「そのあと、どうなったの?」


結衣は唇を震わせる。


「分からない。そこから先が、真っ白なの。気が付いたら、病院で……」


鳴海は結衣を見つめる。


「そうだ!」


その声には、はっきりとした確信が混じる。


「玄関に……誰かがいた」

「誰か?」


鳴海は即座に問い返す。結衣は再び目を閉じる。


「誰か……立っていた。ぼんやりと。でも大人じゃない。背が低かった。小さかった」


身体が小刻みに震え始める。母親による父親殺害の可能性。正当防衛の成立余地。放火の経緯。さらに、玄関にいた“誰か”の正体。結衣の証言は、事件の構図を大きく塗り替える可能性を孕んでいた。結衣は突然、目を見開く。


「……万智……!」


結衣は目を開け、鳴海を見据える。


「そうよ。万智。万智が玄関にいたの。私を見ていた」

「万智ちゃんが?」


鳴海の声は静かだが、内心では疑問が渦巻く。万智は施設に保護されているはずで、居場所も厳重に管理されている。万智の家族が、万智の居所を知りえないように、万智の方も家族の現在の住所を知る可能性は極めて低い。結衣は確信を持ったように続ける。


「間違いない。あの目だった。何も言わないで、いつもこっちをじっと見る嫌な目。私が倒れているのをきっと見てたんだ……」


記憶の再構成か、幻覚的体験か。あるいは、第三者の存在か。鳴海は思考を巡らせる。外傷による一過性の意識障害、強度のストレス下における視覚性錯覚、解離状態に伴う記憶の混線。いくつもの可能性が浮かぶ。

お読みいただきありがとうございます。

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