陰影2-3-⑧:行かない理由、行ってしまう理由
「和ちゃん、どうしたの?」
キッチンから顔を出した叔母が、不思議そうに首を傾げる。
「あ、ううん。何でもない」
和は慌てて受話器を戻し、自分の部屋へと引き返した。約束などしていない。寧々が勝手に決めて、勝手に電話を切っただけだ。行かなければならない理由など無い。そう言い聞かせるように、机に向かい、教科書を開く。
人と深く関わっても、良いことなどほとんどない。特別に親しい友人など、必要ない。そう思いながら問題集を手に取るが、ページの文字はなかなか頭に入ってこない。時計の秒針の音が、いつも以上に大きく響いているように感じられた。気づけば、寧々が一人で待ち続けている姿が、勝手に想像されてしまう。
(関係ない。私には関係ない)
そう心の中で繰り返しながら、無理やり視線を問題集に落とす。
(……ああ、もう!)
和は机に両手を突き、勢いよく立ち上がった。瞼の裏に寧々の姿がちらつき、どうしても集中できない。ため息を一つ吐き、観念したように着替えをして階下へ降りる。
「あら、和ちゃん。出かけるの?」
「あ、うん。紫園さんが映画を観ようって……」
「あら、いいわね。夏休みですもの。何を観るの?」
「あ、えっと……」
和は小さく首を傾げる。上映中の映画のタイトルすら思い浮かばない。
「し、紫園さんが決めているみたい」
「そうなの。あ、じゃあ映画代を、」
叔母が奥へ引っ込もうとするのを、和は慌てて止めた。
「大丈夫。お小遣い、全然使ってないから」
「そう?遠慮しなくていいのよ」
「本当に大丈夫だから。行ってくるね」
「行ってらっしゃい」
叔母の家に来てから、毎月もらっているお小遣いは殆ど手つかずのままだ。誰かと遊びに行くこと自体がほぼなかったから、使う機会もなかった。気づけば、その多くが貯金に回されている。この家には生活に必要なものが全て揃っていて、和が自分で何かを買うことは無いに等しい。
正直なところ、お小遣い自体が不要だと思ったこともあり、それも叔母たちに話したが、叔母たちは、毎月欠かさず用意してくれている。
母と暮らしていた頃とは、まるで別の生活だ。母は結婚前から仕事を続けていたし、会社もそこそこ大手だったので、同年代の女性よりも収入も安定していたはずだ。それでも、岳が現れてからは家計が目に見えて苦しくなっていった。
日々の暮らしの中で、それは嫌というほど伝わってきた。彼は働かず、母から金を受け取るばかりだったのだから。母は岳がそばにいるのが嬉しいのか、それとも自分のせいで岳が家庭も職も失ったと思って罪悪感でも持っているのか、と思うくらい岳に言われるままお金を渡していた。
母が亡くなった後、通帳に残っていた金額は、和の想像を大きく下回っていた。その事実を思い出すたび、胸の奥が重くなる。考えれば考えるほど、嫌な記憶ばかりが次々と浮かび上がってくる。
待ち合わせ場所に着くと、そこには寧々だけでなく、浩太と朝陽の姿もあった。思いがけない顔ぶれに、和は思わず足を止めてしまう。
(……え?どうして?)
「和、遅―い!」
寧々にそう言われて腕時計を見ると、確かに十分ほど過ぎていた。行くべきか迷っていた時間が、そのまま遅れになってしまったのだ。
「やあ」
浩太が、どこか照れたように短く手を上げる。
「へえ、深見さんって私服だとそんな感じなんだ」
朝陽が和を一通り眺めて頷いた。寧々と二人きりだと思い込んでいたから、服装のことなど深く考えず、手近なものをそのまま着てきてしまった。浩太がいるなら、もう少し……そんな考えが一瞬よぎり、和は慌てて頭を振る。
(……何を考えているの)
「な、なんで木島君と上條君がいるの?」
心の中で思っていたことが、そのまま言葉となって出た。
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