陰影2-3-⑦:重なる笑みー呼び覚まされる記憶
和はその背中を見送りながら、また名前を聞きそびれたことに気づいた。こうして何度も顔を合わせているのだから、何かしらの縁があるようにも思えるのに不思議とその縁が浅いままだ。それにしても、こんな場所で再び会うとは思わなかった。女の子の言うとおり、確かに出来過ぎた偶然だと感じる。和はしばらく、その親子が去っていった方向を無意識に見つめていた。すると、頭の奥に何かが浮かびそうになる。
(何……?)
誰かの姿が、ぼんやりと輪郭だけを伴って浮かび上がる。さきほどの女の子の笑みが、点滅する灯りのように現れては消え、そのたびに別の誰かの笑みと重なりかける。
――そんなに大切なら、首輪でもつけておけば?そんな大層な男でもないけどね――
(え……?)
唐突に、遠い昔に聞いた言葉が脳裏に響いた。
――返してあげるわよ。別に執着していないし。私は誰でも良かったのよ――
激昂する母に向かって、そう言い放ち、嘲るように笑っていた女の姿が浮かぶ。何でこんなにはっきりと覚えているのだろう。その言葉を放った女の顔そのものは思い出せないのに。ただ、赤い唇で笑っていたあの口元だけははっきりと覚えている。そして二人の女に挟まれて情けなく視線を泳がせていた父の背中。
その父の顔は、今となっては曖昧だ。それでも、あの場面の空気と感情だけは、幼かったにもかかわらず鮮明に残っている。和の家庭が、決定的に壊れ始めた日だったからかも知れない。
だが、なぜ今になって、あの記憶が蘇ったのだろう。確かに忘れたわけではなかった。ただ、日常的に思い返すような出来事でもなかったし、思い出したことも殆どない。むしろ、できることなら思い出したくない記憶だ。それなのに今、不意打ちのように、鮮やかに映し出された。
(……なんで)
何が、あれを思い出させたのだろう。和は無意識にこめかみを押さえた。女の子の笑みと、過去の女の笑みが重なり合う。そうだ、今の女の子の笑みと、あの時の父の浮気相手の女の笑みがとてもよく似ているのだ。和はそれらを振り払うように小さく首を振る。もしかして、あの子は過去からの訪問者なのだろうか。そんな荒唐無稽な考えが、一瞬だけ頭をよぎる。
(まさか、ね)
相手はまだ小学生の子供だ。和の過去を揺さぶる存在になど、なり得るはずがない。あの笑みがやけに大人びて見えたせいで、余計な想像をしてしまったのだろう。きっと、色々と考え過ぎているだけだ。あの悪夢の日から、どんなことも深く考えすぎる傾向がある。だから、きっとそのせいなのだ、と和は自分自身に結論付ける。
それから一週間ほど経った頃、寧々から連絡が入った。一緒に映画を観に行かないかという誘いだった。和は一瞬、返事に迷う。夏休みに友達と出掛けるなど、いつ以来だろうか。母が亡くなってから……いや、母が山下岳と関わるようになってから、一度も無かった気がする。
思い返せば、あの出来事が起こるまでは、友達と過ごす時間が楽しくて仕方がなかった。学校が終わり、サッカーの練習が無い日も、毎日のように外へ出かけていた。外の世界は、和にとって居心地の良いいつも光り輝いている場所だった。
それなのに今は、誘いを受けたこと自体が少し重く感じられる。楽しみよりも、億劫さが先に立つ。その変化に、和自身が戸惑っていた。
「私は、やめとく。見たい映画もないし」
受話器越しにそう答えながら、和は自分の言葉にどこか言い訳めいた響きを感じていた。
「せっかくの夏休みなのに、ずっと家に籠っているつもり?」
「もっと勉強したいし」
「そんなに頑張らなくても、誰も和に追いついたりしないわよ」
「そういう意味じゃない。ただ……」
「夏休みは長いんだから。それとも、何か用事でもあるの?」
用事と聞かれて、和は一瞬言葉に詰まる。特別な予定など、何一つ無かった。
「……ないのね」
その一言と同時に、寧々が電話の向こうで笑っている顔が、ありありと脳裏に浮かぶ。声だけしか聞こえていないはずなのに、その表情や仕草までが自然と想像できてしまう。
「じゃ、決まりね」
「え、あ、ちょっと――」
和の制止も聞かず、寧々は待ち合わせ場所と時間を一方的に告げ、そのまま電話を切った。通話の切れた音が静かな部屋に響く。受話器を手にしたまま、和はしばらくその場に立ち尽くしていた。
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