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深層の滓(しんそうのおり)  作者: 麗 未生(うるう みお)
第三章 陰影(いんえい)

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陰影2-2-⑫:殺されたのが私だったのなら……

「まだ少し、目を通さなければいけない仕事の書類があってね。眠くならないように」

「あ、う、うん。分かった」


返事をしながら、寧々は手際よくカップを温める。指先が僅かに震えていることに、自分でも気づいていた。淹れたコーヒーを父の前に置き、寧々はおずおずと向かいの椅子に腰を下ろす。父は一呼吸置いてから、ゆっくりとカップに口をつけた。


「ああ……旨い」


その一言に、胸の奥に溜めていた息が抜けた。


「お母さんが淹れてくれたコーヒーと、同じ味だ」

「……ほんと?」

「ああ」


父はそう言って、もう一口飲む。


「それで……鳴海さんは、どんなことを話したんだ?」

「色々だよ」


寧々は思い出すように言葉を選んだ。


「お母さんって、本当はすごく負けず嫌いだったとか。成績も、学年トップだったとか」

「そうか……」


相槌を打ちながら、父の視線がふと逸れた。壁際に立て掛けられた写真立て。そこには、母が幼い莉子を抱いて笑っている写真がある。鳴海と話していたときは、秘密が露見しないよう気が気ではなかった。それなのに、その鳴海のおかげで、こうして父と久しぶりに同じ時間を過ごしている。そう思うと、嬉しい思いもあるのに胸の奥に小さな棘が刺さったような、複雑な気分になる。


「学校はどうだ?」


突然の問いに、寧々は顔を上げた。


「え?」

「転校して、新しい高校にはもう、馴染んだのか?」

「あ、うん」


慌てて頷く。


「友達も、たくさんできたよ」

「そうか」


父は小さく頷いた。


「それなら、いい」


沈黙が落ちる前に、寧々は思い出したことを口にした。


「あ、そういえば……」

「お母さん、高校の時、将来は裁判官になりたいって言ってたんだって。知ってた?」

「あ……いや」


父は少し意外そうに目を瞬かせる。


「聞いたことはなかったな。そうか……朱音には、そんな夢があったのか」


考え込むような父の表情を見て、寧々の胸がきゅっと縮む。その夢を奪ったのは、自分なのではないか。そんな考えが、また勝手に頭をよぎる。そして、父もそう思っているのではないかと。余計なことを言ってしまった。そう思った時、父が再び口を開いた。


「……寧々はどうなんだ?」

「え?」

「何か、目指しているものはあるのか?」

「私は……」


寧々は一瞬言葉に詰まる。


「まだ、特には」

「そうか」


父はそれ以上追及しなかった。


「まあ、焦ることはない。まだ、」


そう言いかけて、父はふっと口を閉じる。父は残っていたコーヒーを一気に飲み干し、静かに立ち上がった。寧々には、その続きが想像できてしまう。寧々には、まだ時間がある。将来のことを、ゆっくり考える時間。


 けれど、莉子の時間は四歳のまま、止まってしまった。もう、どんな夢も見ることができない。無限に広がっていたはずの未来は、何ひとつ形になることなく、散ってしまった。父にとっては、たった一人の、可愛い娘だったのに。そんな思いが父の胸を占めているのだろう。


それなのに、赤の他人である寧々は生きていて、こうして父の前に座り、娘のように振る舞っている。その事実を、父はどこか理不尽に感じているのではないか。そんな考えが、どうしても頭から離れない。自室へ向かおうとする父の背中に、寧々は思わず声を掛けていた。


「……お父さん」


父は足を止め、ゆっくりと振り返る。


「あの時……」


喉がひりつく。


「あの時、殺されたのが莉子じゃなくて、私だったら良かったのにね」


心の底に沈めていた言葉が、抑えきれずに溢れ出た。父はその言葉を受け止めるように、じっと寧々の顔を見つめ返す。その目には、深い悲しみが宿っていた。言ってはいけないことを言ってしまった。そう思った瞬間には、もう遅かった。寧々は口を閉じ、ただ父の言葉を待つ。


「……この世に」


父は、低く静かな声で口を開いた。


「この世に、殺されていい命など、一つもない」

「……それが」


寧々は思わず続けてしまう。

お読みいただきありがとうございます。

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