陰影2-2-⑫:殺されたのが私だったのなら……
「まだ少し、目を通さなければいけない仕事の書類があってね。眠くならないように」
「あ、う、うん。分かった」
返事をしながら、寧々は手際よくカップを温める。指先が僅かに震えていることに、自分でも気づいていた。淹れたコーヒーを父の前に置き、寧々はおずおずと向かいの椅子に腰を下ろす。父は一呼吸置いてから、ゆっくりとカップに口をつけた。
「ああ……旨い」
その一言に、胸の奥に溜めていた息が抜けた。
「お母さんが淹れてくれたコーヒーと、同じ味だ」
「……ほんと?」
「ああ」
父はそう言って、もう一口飲む。
「それで……鳴海さんは、どんなことを話したんだ?」
「色々だよ」
寧々は思い出すように言葉を選んだ。
「お母さんって、本当はすごく負けず嫌いだったとか。成績も、学年トップだったとか」
「そうか……」
相槌を打ちながら、父の視線がふと逸れた。壁際に立て掛けられた写真立て。そこには、母が幼い莉子を抱いて笑っている写真がある。鳴海と話していたときは、秘密が露見しないよう気が気ではなかった。それなのに、その鳴海のおかげで、こうして父と久しぶりに同じ時間を過ごしている。そう思うと、嬉しい思いもあるのに胸の奥に小さな棘が刺さったような、複雑な気分になる。
「学校はどうだ?」
突然の問いに、寧々は顔を上げた。
「え?」
「転校して、新しい高校にはもう、馴染んだのか?」
「あ、うん」
慌てて頷く。
「友達も、たくさんできたよ」
「そうか」
父は小さく頷いた。
「それなら、いい」
沈黙が落ちる前に、寧々は思い出したことを口にした。
「あ、そういえば……」
「お母さん、高校の時、将来は裁判官になりたいって言ってたんだって。知ってた?」
「あ……いや」
父は少し意外そうに目を瞬かせる。
「聞いたことはなかったな。そうか……朱音には、そんな夢があったのか」
考え込むような父の表情を見て、寧々の胸がきゅっと縮む。その夢を奪ったのは、自分なのではないか。そんな考えが、また勝手に頭をよぎる。そして、父もそう思っているのではないかと。余計なことを言ってしまった。そう思った時、父が再び口を開いた。
「……寧々はどうなんだ?」
「え?」
「何か、目指しているものはあるのか?」
「私は……」
寧々は一瞬言葉に詰まる。
「まだ、特には」
「そうか」
父はそれ以上追及しなかった。
「まあ、焦ることはない。まだ、」
そう言いかけて、父はふっと口を閉じる。父は残っていたコーヒーを一気に飲み干し、静かに立ち上がった。寧々には、その続きが想像できてしまう。寧々には、まだ時間がある。将来のことを、ゆっくり考える時間。
けれど、莉子の時間は四歳のまま、止まってしまった。もう、どんな夢も見ることができない。無限に広がっていたはずの未来は、何ひとつ形になることなく、散ってしまった。父にとっては、たった一人の、可愛い娘だったのに。そんな思いが父の胸を占めているのだろう。
それなのに、赤の他人である寧々は生きていて、こうして父の前に座り、娘のように振る舞っている。その事実を、父はどこか理不尽に感じているのではないか。そんな考えが、どうしても頭から離れない。自室へ向かおうとする父の背中に、寧々は思わず声を掛けていた。
「……お父さん」
父は足を止め、ゆっくりと振り返る。
「あの時……」
喉がひりつく。
「あの時、殺されたのが莉子じゃなくて、私だったら良かったのにね」
心の底に沈めていた言葉が、抑えきれずに溢れ出た。父はその言葉を受け止めるように、じっと寧々の顔を見つめ返す。その目には、深い悲しみが宿っていた。言ってはいけないことを言ってしまった。そう思った瞬間には、もう遅かった。寧々は口を閉じ、ただ父の言葉を待つ。
「……この世に」
父は、低く静かな声で口を開いた。
「この世に、殺されていい命など、一つもない」
「……それが」
寧々は思わず続けてしまう。
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