陰影1-1-⑪:母を殺されたもう1人の娘
「莉子ちゃん……会いたかったわ」
震える手で南海の頬を撫でる。その仕草はあまりにも優しく、慈しみに満ちていた。
「みぃしゃんだよ」
そう答えながら南海は少し不思議そうな顔をするが、朱音の母の背にそっと手を回す。あの事件以来、こんな穏やかな表情を彼女が見せたのは初めてかもしれない。
鳴海は、その光景を見つめながら、このまま時間が止まってくれたらいい、と思った。彼女の中で、幸せな記憶だけが永遠に続けばいいと。
「ああ、嬉しい。公洋さん、この間は莉子ちゃんを連れてきてくれなかったから……どうしているのかと思っていたのよ」
「え?」
(この間…?)
思わず声が漏れた。朱音の夫・公洋は、娘の寧々を連れてアメリカへ渡ったきりのはずだった。帰国してきている、ということなのだろうか。
「公洋さん、最近、ここに来たのですか?」
鳴海が問いかけると、朱音の母は不思議そうに首を傾げ、それから微笑んだ。
「あら、嫌だ。鳴海ちゃん、聞いていなかったの?ついこの間、来たばかりよ。寧々ちゃんと一緒に。ねえ、公洋さん?でも莉子ちゃんは一緒じゃなかったのよね」
そう言いながら朱音の母は天哉を見る。天哉を朱音の夫だと思っているようではあるが、鳴海のことはきちんと認識している。突然の問いに、天哉は一瞬、目を泳がせたが、すぐに頷いた。
「あ、え、ええ……」
「あら、でも変ね。寧々ちゃん、とても大きくなっていたのよ。なのに莉子ちゃんは小さいままなんて……あら、どうしてかしら」
朱音の母はこめかみに手を当て、何かを思い出そうとするように目を細めた。本当に、公洋と寧々は帰ってきているのだろうか。朱音の母が今のように、誰かと勘違いしているのか、記憶を混同しているということもあり得る。
「記憶違いかしら……変ね……」
朱音の母が考え込むのを見て、鳴海は天哉に目で合図した。天哉は頷くと、南海を抱き上げてそっと部屋を出た。鳴海は少し声を落とし、朱音の母の前に腰を下ろす。
「おばさん、最近、寧々ちゃんに会ったの?」
その問いに、朱音の母は顔を上げ、嬉しそうに頷いた。
「ええ、もう高校生になっていたのよ。すっかり大きくなっていて、吃驚しちゃったわ」
「寧々ちゃん達は、日本に帰ってきているのね?」
鳴海の声がわずかに震える。
「そうなのよ。それでこの間、公洋さんが挨拶に来て……あら、莉子ちゃんは?今、ここにいたわよね。どこへ行ったのかしら」
朱音の母は辺りを見回し、少し不安げな顔をする。
「気のせいかしら……」
現実と記憶が入り混じっているのが伝わる。鳴海は穏やかに笑いかけながらも、質問をする。
「おばさん、寧々ちゃん達は今、どこに住んでいるの?」
「えっと……どこだったかしら。聞いたような気もするのだけれど、思い出せないのよねぇ……」
朱音の母は遠くを見つめ、曖昧に笑った。もし本当に彼らが帰ってきているなら、ぜひ会いたい。朱音の事件のことを、そしてあの日の真実を、寧々の口から聞きたい。鳴海は少し間をおき、静かに言った。
「おばさん、今度、寧々ちゃん達が来たら、住所をどこかに書き留めておいてくれる?」
「あ、ええ、いいわよ」
帰り際、鳴海は受付に立ち寄り、確認した。
「先週、島崎さんを訪ねて来た方がいたと伺ったのですが……」
受付の女性は名簿を見ながら頷いた。
「ええ、一週間ほど前に男性と中学生か、高校生くらいの女の子が面会に来られています」
胸が高鳴った。朱音の母の記憶違いではなかった。
「その方たちの住所を教えて頂くことは……」
「申し訳ございません。個人情報になりますので……」
職員はやんわりと断った。最近はこういうことを簡単には教えてくれないようになった。世の中が変わってきている。鳴海の時も確かにごいているのに、朱音との時間はもうずっと止まったままだ。でも鳴海の胸の奥で、何かが確かに動いた。朱音の事件に、新しい風が吹き始めた気がする。
朱音の娘の寧々。あの子に最後に会ったのは、彼女が小学校一年の頃だった。母と妹の命を突然奪われ、あの幼い子は何を思ったのだろう。怯えと悲しみが入り混じった、忘れようのない瞳。
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