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深層の滓(しんそうのおり)  作者: 麗 未生(うるう みお)
第三章 陰影(いんえい)
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陰影1-1-⑨:穏やかな平和の中に潜む後悔

「垣内さん、手当てしてあげたら?」


桃香がこちらを見て、軽く顎をしゃくった。


「私、外科じゃないし」


鳴海は苦笑いを浮かべながら返す。見ていた限りは、頭を打ったわけでもないし、尻もちついて軽くて手首を捻ったかもしれない程度である。だから大丈夫と勝手な判断をするわけにはいかないが、鳴海の出番はないように思える。


「でも、ドクターでしょ?」


桃香が食い下がるように言った。


「あ、いえ……大丈夫です。少し赤くなっているだけですし」


二人のやり取りを聞いていた天哉は丁寧に頭を下げ、そのままその場を離れようとした。しかしその彼の腕を、桃香が素早く掴んだ。


「大丈夫なら、一緒に飲みましょうよ」

「は?」


天哉は目を丸くする。鳴海は思わず声を上げた。


「ちょ、ちょっと新珠さん、何言ってるの?」

「いいじゃない。袖すり合うも多少の縁、でしょ?」


桃香は悪戯っぽい笑みを浮かべる。袖なんてすり合ってない、と鳴海は心の中で突っ込みながらも、桃香の勢いに押され、天哉もそのまま自分たちの席に引き込まれてしまった。正直に言えば、鳴海の天哉への第一印象はあまり良いものではなかった。


 職業は教師だというが、どこか頼りなく、線が細い。「こんなんで生徒が言うことを聞くのだろうか」と思ったほどだった。だが、居酒屋で何度か顔を合わせるうちに、印象は少しずつ変わっていった。彼はいつも人の話をよく聞き、決して偉ぶらない。喧嘩には強くはなくても、真面目さと誠実さがにじみ出ていた。


 生徒には恋の悩みまで相談されるらしい。それはきっと生徒に慕われる先生であるということなのだろう。天哉は「教師と言うより友達扱いされてる」と頭を掻いていたが満更でもないようだ。


 そして、数回目に会った夜、天哉は突然、鳴海に交際を申し込んできた。驚いたが、すでに彼の人柄に惹かれていた鳴海の心は、不思議なほど自然に頷いていた。交際からわずか三ヶ月で結婚を決めたとき、桃香をはじめ、周囲の誰もが口をあんぐり開けた。鳴海自身も、この展開があまりに早すぎるとは思った。だが、心の奥底で「この人となら大丈夫だ」と思えたのだ


 そして今、娘と三人、穏やかで幸福な日々を送っている。仕事で遅くなる夜も、家のことが何一つできない日が続いても、天哉は不満を漏らさない。「おかえり」と柔らかく微笑み、温かい食卓を整えて待っていてくれる。独身生活が長かったせいか、家事は一通りこなせる。「僕、料理得意なんだ」と言って笑う姿に、鳴海は何度も心を救われてきた。


 天哉は中学のときに父親を病気で亡くし、母と兄の三人で育った。母と兄は今も田舎で農業をしている。天哉は東京の大学に進学し、そのまま東京で高校教師になったという。穏やかで温厚な彼の性格は、きっとその家庭で育まれたものなのだろう。


 そんな平穏な日々の中で、鳴海はふと朱音のことを思い出すことがある。朱音が妊娠を理由に進学を諦めたとき、鳴海は「そんなことで」と心のどこかで軽く考えていた。だが、今は違う。子を持った今なら、朱音の気持ちが少しは分かる。お腹の中に命を感じた瞬間から、もうその存在は自分の分身なのだ。

どんな未来よりも大切で、何ものにも代えがたい宝。


 あの時、彼女をもっと支えてあげるべきだった。今になって、胸が締めつけられるほど悔やまれる。

あの事件で生き残った朱音の娘は、もう高校生になる年頃だ。朱音の父は、娘と孫を同時に失った悲しみと、朱音の母が倒れてその看病で心労も重なったせいか、二年後に病死した。


 その葬儀のとき、もしかしたら朱音の夫の公洋や娘の寧々に会えるかもしれないと淡い期待を抱いたが、二人は帰国しなかった。


 その後、朱音の母は家を売り、施設へ入った。鳴海は時折、顔を見に行く。しかし一年ほど前から、彼女の中に認知症の兆候が見え始めていた。今では、朱音や孫を「今も生きている」と思い込んで話すことがある。現実と心の奥に秘めていた願いが、彼女の中でゆっくりと混ざり合っているのだろう。


「ねえ、今度のお休みに、久しぶりに行ってみようと思うの」


夕食を終えた後、鳴海は夫に言った。

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