遠因2-3-㉒:血塗られた再会――暗がりの中の声
会えなければ仕方がない、職場が東京であった時は、まだそう自分に言い聞かせることもできた。だが、今日は違う。やっと取れた貴重な休み、もし今日会えなければ、次がいつになるのか分からない。
保人は諦めきれず、近所をぶらぶらと歩き回った。やがて空は群青に染まり、街灯の下を虫が飛び交い始めた頃、保人は足を止めた。駅前の明かりの中に、見覚えのある女の姿が映った。梗子だった。瞬間、体が固まる。反射的に近くの電柱の陰に身を潜める。梗子は改札を出て、ゆっくりと歩き始めた。
保人は距離を保ちながら、その後を追った。まるで自分の意思ではなく、何かに引き寄せられるように。もしかしたら依智伽も現れるかもしれない。話しかけることはできなくても、姿だけでも見たい、元気な姿だけでも確認できれば、そう思った。梗子はまっすぐアパートの方向へ向かっていた。その角を曲がれば、いつもの公園がある。梗子が角を曲がってから数秒後、保人もその角へと近づいた。
その瞬間だった。「ギャッ!」という甲高い声が闇を裂いた。嫌な予感がして足が止まる。しばらく間を置いてから保人は恐る恐る、角の向こうに足を動かした。そろそろと声のした方を覘く。街灯の下、黒い塊のようなものが道路に蹲っている。そして公園の奥へと、誰かが走り去っていくのが視界の端に映った。
(何だ…?)
心臓の鼓動が荒くなる。足が勝手に前へ進んだ。黒い塊が、グラグラと揺れたかと思ったら、道路に倒れ込んだ、梗子だった。頭から血を流しているのが見えた。
「きょ……梗子……?」
声が震えた。これは一体どういう状況なのか。保人の声に反応したのか、梗子がゆっくりと視線をこちらへ向けた。その瞳に浮かんだ光は、かすかに揺れていた。保人を見た梗子が唇を震わせながら尋ねる。
「あんた……誰……?」
息を詰めた。明らかに助けが必要な状況下なのに、助けを求めるより、まずそれを訊くのか。
「お、俺は……」
言葉が喉で止まる。何を言えばいい? “昔の男”とでも?否、そう言っても梗子にはきっと分からないだろう。名前だってきっと覚えてもいないだろう。それほどに梗子にとって保人は取るに足りない存在である。
「あ……そ、そうだ、きゅ……救急車を……」
死後との連絡がある以外、使うこともないからその存在さえ忘れそうになる携帯をポケットから取り出し、震える手で番号を押そうとした。だが、その手を止めるように梗子の声がした。
「もう……間に……合わ……ないわ……私、看護師だから分かるの……よ」
途切れ途切れの言葉。そして梗子の口元から鮮やかな赤が溢れた。咳き込む度に血が地面を染めていく。保人の背筋を冷たい恐怖が這い上がった。まるでホラー映画の中の出来事のようだ。だが、これは現実だった。
「あんたも……どこの……誰か……知らないけど……行って……関わると……ろ、ろくな……」
「そ、そんなこと言われても……」
放っておけるわけがない。例え心の底で何度も「いなくなればいい」と思った女であっても、血塗れで倒れている姿を見捨てることなどできない。保人は周囲を見回した。さっき逃げた人影の方向に目を向ける。
「だ、誰か……見た……?」
「あ、い、いや……俺は……何も……」
「そう……なら……いい……」
梗子の唇が、微かに動いた。その表情が笑ったように見えた。錯覚だと思った。こんな状況で笑うはずがない。だが確かに、口角がわずかに上がったように感じた。その直後、梗子の体から力が抜けた。目は虚空を見たまま、動かなくなっていた。
血の匂いが鼻の奥に張り付く。直感的に、彼女が絶命したと悟った。保人はその場に立ち尽くし、ただ呆然と、夜の闇の中で凍りついた。
梗子の死は、翌日のニュースで小さく報じられていた。保人は、結局通報せずにあの場から逃げるように去った。警察に連絡すれば、自分が疑われるに決まっている。そう思ったのだ。もし警察が調べたら、保人の過去など一瞬で明るみに出る。前科がある。
しかも、あの梗子こそ、かつて保人が起こした傷害事件の被害者だった。偶然通りかかった、などと誰が信じるだろう。どうせ「仕返しでもしようと、つけ狙っていた」と決めつけられるに違いない。
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