遠因2-3-⑰:「残された名札」――交錯する過去の影
心の中で否定する。そんな偶然があるはずがない。それに保人が知っている記憶の中のあの子とは違い過ぎる。状況が状況だったから仕方ないが、それでも、保人の記憶にあるあの子は、いつも太陽のような笑顔を浮かべていた。でも、「そんな筈はない」と言い聞かせる度に、胸の奥にざらつく違和感が残る。
次の休日、保人はどうしても確かめずにはいられなくなり、あのアパートへ向かった。数日前に見た、白い布をかけられた担架。あれは二階から運び出されていた。階段を上り、静まり返った廊下に足を踏み入れる。二つ目の部屋の扉に、〈佐藤〉というネームプレートがかかっていた。
(佐藤……まさか、そんな)
頭の中で何度も否定の声が響く。だが、身体の震えは止まらなかった。佐藤、それは元妻の富美子の旧姓。
(違う。あれが富美子のはずがない。彼女が自殺だなんて……)
そう自分に言い聞かせても、心は落ち着かなかった。そのとき、隣の部屋の扉が開き、住人らしい女性が顔を出した。
「あら?佐藤さんを訪ねて来られたんですか?」
「あ、い、いえ……違います」
保人は慌てて言葉を濁す。
「あら、そうなの。じゃあ新しい入居者さん?でもねぇ、あんなことがあった部屋なのに……」
女性は眉間に皺を寄せ、あからさまに不快そうな顔をした。
「あ、あの……その佐藤さんというのは、この前ここで……」
「ああ、ご存じなのね。そりゃそうよね、事故物件は告知義務があるから。ほんと、もう嫌になっちゃうわ。隣で人が……なんて」
女性は身震いして肩をすくめた。
「そ、その佐藤さんには娘さんが……いらっしゃいましたよね?」
保人の声は震えていた。
「ああ、和ちゃんね。あの子も気の毒に、お母さんがあんな死に方して……。発見したの、和ちゃんなんですよ。え? やっぱり佐藤さんのお知り合いだったんですか?」
(和……)
鼓動が耳の奥で跳ねた。あのとき見た少女の顔が、鮮やかに蘇る。縋るでもなく、泣くこともせず、ただ茫然と母の遺体を運ぶ担架を見つめていた、あの瞳。
「和……!」
気づけば、保人の口からその名が漏れていた。
「あ、でも、もうそこには誰も住んでいませんよ。和ちゃん、親戚の家に引き取られたみたい。あら、名札がまだ残ってる。大家さん、外すの忘れたのね。その親戚の人が来て荷物も全部片付けて行ったのに」
女性はそう言いながら、扉の名札を軽く叩いた。
「あ、あの……その親戚というのは、どちらの方かご存じですか?」
「さあ?そこまでは聞いてないわ」
言い捨てるように答えると、女性は階段を下りて行った。取り残された保人は、〈佐藤〉と記された名札をただ見つめる。その日、保人の心の中には、静かに何かが崩れ落ちていく音が響いていた。富美子が自殺した。それを知ってから、保人の頭の中では同じ言葉がぐるぐると回り続けていた。
(どうして……なぜ彼女が?)
一体、富美子に何があったのだろう。もしかすると、自分が原因なのか、そんな考えが一瞬、脳裏をかすめたが、すぐに否定した。もう六年も前に離婚している。今更だ、離婚届を突き付けた時のあの富美子の目は、とっくに他人になっている目だった。引きずっているはずもない。
けれど、胸の奥で何かが疼く。あの時見た少女、あの子は、本当に“和”だったのだろうか。あまりにも違い過ぎた。
保人の知っている和は、笑うことの多い、活発で元気な子だった。明るくて、どんなときでも人の心を和ませた。だが、あの日見た少女の瞳は、光を失っていた。まるで闇そのものに呑み込まれたような、深く、重たい影を湛えていた。
(この六年間に、いったい何があったのだ……)
離婚が原因なのか。親の離婚は子供の心にも影響するだろう。その上、父親は前科者となったのだから、それが影を落とした、ということも大いにあり得る。さらに、今度は母が自ら命を絶つという悲劇。一瞬にして絶望してしまったのかもしれない。あの子が受けた傷は、想像を絶するものに違いない。
(結局、すべての根源は……俺だ)
そんな思いが頭を離れない。自分の罪が、娘の人生を狂わせたのではないかと。
(和……)
あのとき、ようやく会えたのに。けれど、気づかなかった。保人の中での和は、いつまでも小学一年生のままだった。すでに中学生になっていたというのに。
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