遠因2-3-⑮:「私は要らない」と言う母
「依智伽も、誰かにとって大切?」
不意に問われ、保人は少し笑って答えた。
「もちろんだよ」
「誰かって、誰?」
「依智伽ちゃんにはお母さんがいるだろう?お母さんにとって子どもは宝物だよ」
そう言いながらも、保人は自分の言葉がどこか空々しく響くのを感じた。梗子の顔が頭に浮かぶ。あの女が母親らしい愛情を持っているとは、とても思えない。彼女はいつだって、自分のことしか考えていないのだ。
「違うよ」
保人の心の中を覗いたかのように、依智伽は小さく首を横に振った。
「違うって?」
「依智伽は、お母さんにとって宝物なんかじゃない」
その静かな否定に、保人は思わず息を呑んだ。
「どうして、そう思うの?」
依智伽は視線を落とし、小さな声で続けた。
「あんたなんか、生まれてこなければよかったのに……って。お母さん、いつもそう言うの。依智伽は邪魔なんだって」
保人の喉が詰まった。怒りとも悲しみともつかない感情が胸を突き上げ、思わず拳に力がこもる。あの女こそ死ねばいい、一瞬そんな風に思ってしまった自分が恐ろしい。
「依智伽はね、要らない物なんだって。でも、お母さんは優しいから、要らない物でも置いてくれてるんだって。だから依智伽は、お母さんに感謝しなきゃいけないんだよ」
淡々と語るその声が、あまりに幼く、痛々しかった。何か言わなければ、と焦りと共に言葉を絞り出す。
「き、きっとお母さんはね、お仕事が大変なんだよ。疲れてて、ついそんなことを言っちゃっただけだよ。本当にそう思ってるわけじゃない」
梗子はそういう女だ、そう言いそうになる自分を保人は必至で抑える。だが、自分でも信じられないほど、胸の奥に渦巻く怒りが抑えきれない気がした。
「そ、そんなことより……依智伽ちゃん、お腹、減ってない?」
無理に話題を変えた。もうこれ以上、梗子の話をしていたら、心の均衡が崩れてしまいそうだった。
「大丈夫だよ。学校で給食食べたから」
依智伽はそう言って、ニッと口角をあげる。でもこの顔が笑っているのかどうか保人には判断がつかない。否、暗くよどんだその瞳は決して笑ってはいないように見える。保人は依智伽の言葉に小さく頷きながら、そっと横に置いていた袋を指差した。
「そうか。おじさんね、依智伽ちゃんと一緒にサンドイッチを食べようと思って買ってきたんだ」
「いいよ」
「え?」
「依智伽、一緒に食べてあげる」
「ほ、ほんと?」
「うん」
小さく頷いた依智伽は、保人の隣にちょこんと腰を下ろした。保人は嬉しさを隠せず、袋からサンドイッチを取り出して手渡す。依智伽はそれを受け取ると、迷いなく口に運び、ぱくっとかじった。
「美味しい!」
瞳を輝かせてそう言うと、満面の笑みで保人を見上げた。その笑顔は、あどけなく、やっと子供らしい顔が見られた、と感じるとともに、どこか切ない気持ちも湧く。
「良かった。気に入ってもらえて」
「うん、本当に美味しいよ。すごいね、依智伽、こんなに美味しいもの、生まれて初めて食べた。魔法のサンドイッチだね」
「魔法の、か……」
保人はその言葉に小さく笑った。目の前で頬をいっぱいにして食べるその姿を見ていると、胸の奥が温かくなる。依智伽の顔に浮かぶ笑顔を、保人これまでは殆ど見たことがなかった。初めて会った日のことをふと思い出す。
「ねえ、依智伽ちゃん。おじさんと初めて会ったときのこと、覚えてる?」
依智伽はサンドイッチを頬張りながら、保人を見上げて小さく首を横に振った。
「ほら、デパートで。ランドセル買ってもらってた時に、振り返っておじさんの方を見ただろう?」
「覚えてない」
「ああ、そうか……覚えてないか」
やはり、あの時の笑顔は自分に向けられたものではなかったのだ。そう思うと少し寂しい。あの笑顔を「自分に向けられた」と信じたかった、否、そう思いたかったのも、また事実だった。
「ねえ、依智伽ちゃん。お母さんは、こうたお兄ちゃんたちのお父さんと結婚するの?」
「知らない」
依智伽はそう言って、保人が手にしているサンドイッチの袋をじっと見つめた。その視線に気づき、保人はそっと尋ねた。
「あ、もう一つ食べる?」
「いいの?」
「勿論。依智伽ちゃんのために買ってきたんだよ」
「怒らない?」
「え?どうしておじさんが怒るの?」
「家でお代わり欲しいって言うと、お母さんが怒るの。依智伽は卑しい子だって。ねぇ、卑しいってどういう意味?悪い子ってことだよね?」
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