遠因2-3-⑭:人の死を嗤う母
小さく笑ってそう答えると、依智伽はランドセルにノートと教科書をしまい、ぱたぱたと走っていった。その小さな背中が見えなくなるまで、保人はただ立ち尽くしていた。気がつけば頬を伝う涙がはらはらと落ちていた。何が悲しいのか、否、全てが悲しかった。
胸が締め付けられるように苦しくてたまらなかった。梗子のような母のもとで、あの子がこれからも育っていくのかと思うと、不憫でならなかった。だが、それでも依智伽にとってはたった一人の母親なのだ。
その後、工場の仲間の一人が辞めたことをきっかけに、保人は一層忙しくなった。残業だけでなく休日出勤も頼まれ、依智伽の様子を見に行く時間が全く取れなくなってしまった。過剰労働なのは明白だ。それでも「働ける場所がある」という事実がありがたく、愚痴をこぼす気にはならなかった。ただひとつ、依智伽に会いに行けないことだけが、保人にとって気がかりではあったが。
そうして忙しい時期が過ぎ、保人が再び依智伽の様子を見に行けたのは、前に依智伽と会話してから二ヶ月近く経った頃だった。その日、保人はいつものようにアパートの前まで足を運んだが、部屋には夜になっても灯りが点かなかった。梗子も帰っていないようだ。
二人一緒にどこかへ出かけているのなら、きっと、あの男のところだ。依智伽も連れて行っているのなら、今日は心配ないだろう。少なくとも、空腹のまま放っておかれることはないはずだ。依智伽は、あの家では一緒にご飯を食べさせてもらっていると言っていた。それでも、顔が見られなかったことに寂しさを覚えた。
どうしているのだろう。梗子は、以前よりも少しはあの子に優しくしてやっているのだろうか。そうであってほしいと願うが、望むだけ無駄な気もした。
工場のほうはひとまず繁忙期を越えたものの、人手不足は相変わらずだった。休みは減り、残業が増えた。朝から夜中まで働きづめの日々。漸く訪れた休みの日は、疲労がどっと押し寄せ、目を閉じた途端に意識が落ちる。気づけば夜になっていて、また翌朝には仕事が待っている。そんな日々の繰り返しの中、保人がようやく依智伽に再会できたのは、さらに数週間が過ぎてからのことだった。
まだ日が高い午後、学校から帰ってくるのを待とうと、保人は近くの公園のベンチに腰を下ろしていた。手には、評判のパン屋で買ったサンドイッチがある。もし会えたら、これを渡そう。そんな小さな思いを胸に、ぼんやりと時間を過ごしていた。
「おじさん」
背後から小さな声がして、保人ははっと振り返った。
「依智伽ちゃん」
振り向いた先には、ランドセルを背負った依智伽が立っていた。相変わらず淡々として子供らしさがない。
「ずっといなかったね。おじさん」
「ちょっと仕事が忙しくてね」
「ふーん、死んだのかと思った」
あまりにも自然に放たれたその言葉に、保人の胸がざわめいた。無表情のまま「死んだのかと思った」と言う、その口調があまりに冷たく聞こえる。
「人はそんなに簡単に死んだりしないよ」
そう答えると、依智伽は小首を傾げた。
「でも、お母さんが言ってたよ」
「お母さんが?」
「人って簡単に死ぬのよ、って」
その言葉に、保人の胸の奥で何かが軋む。梗子は看護婦だ。死を日常的に見ているから、そう口にすることもあるだろう。けれど、それだけの意味だろうか。
「お母さんはね、看護婦さんだから。人が亡くなる場面を何度も見てきたんだと思うよ。だから、ついそんなふうに言っちゃうんだ。でもね、実際にはそんなことない」
「そうなの?でも嬉しそうだったけど」
依智伽の言葉にすぐに返答できない。それは誰かの死を梗子が喜んでいたということか。そしてあの梗子ならそういうこともあるだろうと納得してしまう。でも依智伽には梗子のようになって欲しくはない。
「どんな人でも、誰かにとってはとても大切な存在なんだよ。死んじゃったらもう二度と会えない、それは嬉しいことじゃないんだよ」
依智伽は保人の言葉をしばらく考えるように見つめていた。まだ幼い依智伽には分からないだろうか。変化のない表情の下で何を考えているのだろうか。その小さな額にかかる前髪が、風で揺れた。
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