遠因2-3-⑫:笑いながら死を語る子
言葉を絞り出すと、依智伽はじっと保人の顔を見つめ、「ふーん」と小さく呟いた。そして、ためらいなく保人の横に腰を下ろすと、ランドセルから取り出したのは、一冊のノートだった。
「何?」
「宿題」
「家に帰ってやらないの?」
「どこでやっても一緒だよ。どうせ一人だから」
小学一年生の口から出るとは思えないほど大人びて見える。
「お母さんは?」
恐る恐る尋ねると、依智伽は答えた。
「浩太お兄ちゃんのところ」
「こうた……お兄ちゃん?依智伽ちゃんは、そこへ行かないの?」
「時々は連れて行ってくれる。でもね、いいんだ。浩太お兄ちゃんのところから帰ってきた日は、お母さん機嫌がいいから」
その言葉に、保人は胸の奥が締めつけられる。こうたお兄ちゃんとは、あのデパートで見かけた男の子のことだろう。やはり梗子はあの男性の家に通っているのだ。その男も、梗子に子どもがいることを知っているはずだ。連れてきていないことを疑問に思わないのだろうか。
それにしても、目の前の依智伽はいつもとどこか違う雰囲気をまとっていた。梗子と一緒にいるときは、どこか怯えたような影があった。だが今は、その影が薄くなっている。なぜだろう。
「こうたお兄ちゃんって、優しいの?」
「うん。でもね、舞奈お姉ちゃんのほうが優しい」
「こうたお兄ちゃんと、そのまいなお姉ちゃんのお母さんは?」
「死んだの」
依智伽はそう言って、にっこりと笑った。その笑みが幼さゆえの無邪気なのか、それとも無意識に現れた歪みなのか、保人には分からなかった。人の死を笑顔で語る。きっとまだ小学校一年生だからだ、死の重みなど理解できていないのだろう。
「人が死ぬっていうのはね、とても悲しいことなんだよ。だから、そんなふうに笑って話すものじゃないんだ。こうたお兄ちゃんとまいなお姉ちゃんにとっては、たった一人のお母さんなんだからね。いちかちゃんだって、お母さんがいなくなったら悲しいでしょう?」
保人はできるだけ優しく諭すように言った。その問いかけに、依智伽はまた首を傾げ、小さな声でぽつりと答える。
「……分からない」
それは母親が死ぬということを想像できないということなのか、それとも母親が死んでも悲しいかどうかどうか分からない、そういうことなのだろうか。
「悲しくないの?いつも傍にいたお母さんがいなくなるんだよ」
「うーん…」
歯切れの悪い返事。幼い子供なら当然「悲しい」と答えるはずだと保人は思っていた。だが彼女はそう言わなかった。やはり梗子は母親らしいことを何ひとつしてこなかったのだ。年端もいかない娘が、母親がいなくなることを悲しいかどうか即答できないなんて。
「でもね、お母さんも嬉しそうだったよ」
「嬉しそう?」
思わず保人は聞き返した。
「うん。浩太お兄ちゃん達のお母さんが死んだ時、すっごく嬉しそうだったの。これで邪魔者がいなくなったって言ってた。ねえ、おじさん、邪魔者ってなあに?」
「そ、それは…」
口ごもる保人。依智伽の言葉に、不安だけが膨らんでいく。
「ねえ、そのこうたお兄ちゃん達のお母さんは、なんで死んだの?病気だった?」
「ううん。あのね、殺されたんだって」
「こ、殺された?」
梗子の顔が脳裏をよぎった。まさかその死に、あの女が関わっているのではないか。だが、そんなはずは……と必死に思い直す。それにしても依智伽は、こんな話をまるで噺家のようにためらいもなく口にしている。これは普通なのだろうか。
(依智伽はまだ小学生だ。何も分かっていない。ただ、それだけだ……)
心の中で何度もそう自分に言い聞かせた。
「……誰に殺されたの?」
「浩太お兄ちゃんのおばあちゃんなんだって。それで、おばあちゃんとおじいちゃんは警察に捕まったんだって」
依智伽はおとぎ話でも語るように淡々と告げる。その口調が梗子を思わせてぞっとする。家族間の殺人、小学生が何の感情もなく語ることに違和感しかない。これは事実なのか。
「それ……誰から聞いたの?」
「お母さんが言ってたよ。あの婆さん、呆けちゃってたからねえって、楽しそうに。ねえ、おじさん、呆けちゃってたって何?」
「何かを考えたり、ちゃんと覚えたりすることが出来なくなるってことだよ」
梗子の言葉が本当なのか、嘘なのか。否、梗子はこういう嘘はつかない。保人の胸の奥に強烈な不快感が広がっていく。しかし、これ以上追及するのも恐ろしかった。
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