遠因2-3-⑪:父とは名乗れない……
二人は同時に、外に出た子どもの小さな背中を目で追った。保人はその後を静かに追い、公園に入る姿を見届ける。子どもはベンチに腰を下ろし、遊ぶ親子たちをじっと眺めている。
だが、その表情は不思議なほど無表情で、寂しげでも羨ましげでもない。やがて袋から肉まんを取り出し、無言で食べ始めた。保人は意を決し、そっと近づいた。
「……こんにちは」
声を掛けると、子どもは一瞬だけチラリと見上げたが、すぐに視線を逸らした。反応は乏しい。驚くでも、怯えるでもない。およそ子供らしいとは言えない反応。
「いちか……ちゃんだったね」
その言葉に再び目を上げる。どうして自分の名前を知っているのか。そう問いかけるような視線。しかしすぐに胸元に気づき、「三芳依智伽」と書かれている名札を下ろした。
「いや、名札を見たんじゃないんだ。前に、一度会っているんだよ」
保人は慌てて補足した。依智伽は、警戒するような目でじっと見てくる。
「前にデパートでぶつかったでしょ。小学生くらいのお姉さんと一緒だったろう?その子が君をそう呼んでいた」
その言葉に、依智伽は小さく首をかしげた。だが何も答えず、また下を向いてしまった。たった一度ぶつかっただけの相手を覚えているはずもない。
「おじさんも、一緒に食べていいかな」
保人は自分の買った肉まんを見せながら、恐る恐る尋ねた。依智伽は黙ったまま、小さく頷いた。そして再び視線を遊んでいる親子たちに向ける。その眼差しから感情を読み取るのは難しい。それでも、どこかで羨んでいるのではないかと保人には思えた。
少なくとも、自分が知る限り、梗子がこの子を連れて公園で遊ぶ姿など一度も見たことがないのだから。保人は、胸の奥に疼くような痛みを抱えながら問いかけた。
「いつも一人なの?……お母さんは、どこにいるの?」
そう問いかけても、依智伽は何も答えなかった。ただ黙ったまま、二人並んでベンチに腰を下ろし、無言で肉まんを食べ続ける。みすぼらしい中年の男と、無表情の幼稚園児が同じベンチに座って黙ったまま肉まんを頬張っている、傍目には奇妙な光景に映っただろう。けれど保人にとっては、隣にいるのが自分の娘だと思うだけで胸が熱くなるような、不思議な気分だった。
食べ終えると、依智伽は小さな身体でベンチから軽やかに飛び降り、そのまま振り返ることなく駆けていった。保人はただ黙ってその背中を見送る。伸ばした手は虚しく空を切り、何もできない自分の無力さだけが痛いほど残った。
「無表情な子どもは、親から十分な愛情を受けていない証拠だ」――そんな言葉をどこかで聞いたか、あるいは本で読んだか。はっきりした記憶はない。ただその説が頭にこびりつき、依智伽の顔を見る度にに思い出される。梗子が母親でいる限り、あの子はどんなふうに育っていくのか。考えるだけで胸がざわめき、不安でたまらなくなる。
仕事がある以上、毎日見に来ることもできない。それでも時間ができれば、必ずあのアパートへ足を運び、依智伽の姿を探してしまう自分がいた。そして、季節が巡り、何か月も過ぎたある日のこと。
保人は、依智伽と並んで肉まんを食べたあのベンチに腰を下ろし、ぼんやりしていた。気づくと、目の前に依智伽が立っていた。
「依智伽ちゃん……」
思わず声に出る。小さな体には、真新しいランドセルが背負われている。この春、依智伽は小学生になったのだ。あのデパートで梗子と共にいた男性に買ってもらっていたランドセル、そのことを思い出す。依智伽はまっすぐに保人を見つめ、問いかけた。
「おじさん、誰?」
「お、おじさんは……」
喉が詰まる。まさか“おまえの父親だ”などと言えるはずがない。もし依智伽が梗子に話してしまったら、梗子が何を言って来るか、全く想像ができないのに怖い。苦し紛れな言葉をつむぐ。
「おじさんは……誰でもないよ」
すると依智伽は、さらに鋭い言葉を放った。
「なんで、いつも依智伽のこと見てるの?」
気づいていたのか。保人は一瞬、息をのむ。
「そ、それはね……おじさんにも、依智伽ちゃんと同じくらいの年の娘がいるんだよ」
必死に言い訳をする。
「……」
依智伽は首を傾げ、無言のまま保人を見上げた。
「でも、その子には事情があって……会えないんだ。実は依智伽ちゃんが、その……おじさんの娘に、とても似ていたから……」
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