遠因2-3-⑥:もう一人の娘と、過去に縛られる影
檻にいる間、彼は何人もの「戻ってきた者」を見てきた。罪を繰り返し、世に馴染めぬまま再び鉄格子の中へと戻る者たち。彼らは口々に言った。「前科者には世の中は冷たい」「一度道を踏み外せば、人の目は変わる」「何もしていなくても疑われ、まともに働こうとしても職場では露骨に嫌がらせを受ける」。そんな中で生き抜くのは、並大抵の神経では持ちこたえられないのだ、と。
保人もまた、世間の冷たい視線に晒されることは覚悟していた。それでも、二度と檻に戻ることだけはしないと、自分に言い聞かせていた。いつか、和に堂々と会えるようになるために。心の支えは、娘ただ一人だった。
保人が家を出た時、和は小学校一年生になったばかりだった。買ってやった赤いランドセルを背負い、はにかんだ笑顔を見せた姿は、今も瞼に焼き付いて離れない。今はもう三年生になっているはずだ。背も伸びただろう。声も少し大人びてきたかもしれない。
富美子は、保人のことを和にどう話しているのだろう。きっと良いようには言っていない。和は父を恨んでいるかもしれない。いや、間違いなく恨んでいるだろう。女にうつつを抜かし、家庭を壊し、最後には傷害事件を起こしてしまったのだから。
こんな父親に会いたいなどと思ってくれるはずがない。それでもそんな日が、いつか来てくれないか、望みがないと分かっていても、今の保人にはそれしか縋る希望はなかった。そしてその胸の奥には、もうひとつ消えぬ気がかりがあった。
それは、保人のもう一人の娘のことだった。梗子が産んだ子供。あの子は今、どうしているのだろう。事件の最中、ほんの一瞬だけ赤ん坊の姿を目にしたのが最初で最後だった。小さな手を握っていたあの記憶は、かすんでいるのに鮮烈でもある。
今は二歳になっているはずだ。可愛い盛りだろう。だが保人には、その顔立ちすら思い浮かべられない。この先もしも道ですれ違ったとしても、自分の子だと気付くことはきっとないだろう。
事件のあと、刑事に尋ねても名前すら教えてはもらえなかった。出所後、保人には梗子に対して接近禁止命令が出されていた。ストーカー規制法によるものだ。当時の保人にはにそんなつもりは毛頭なかった。だが、取り調べで刑事にそう言われて、初めて気付かされた。
確かに、いなくなった梗子を執拗に探し回った。居場所を突き止めると、何度も何度も押しかけて復縁を迫った。それは当時の保人にとっては「当然のこと」のように思えた。だが、周囲から見ればそれは紛れもなく「ストーカー行為」そのものだったのだ。自分の愚かさに気付いたのは、あまりにも遅すぎた。それも相まって保人には執行猶予が与えられなかった、というのもある。
梗子は、あの子に父親の存在をどう伝えているのだろう。おそらく「いないもの」として育てているに違いない。認知すら許されなかった。弁護士を通して申し入れたが、梗子はきっぱりと拒絶した。
「今後一切、関わらないで欲しい」
弁護士を介して告げられた言葉が、胸に深く突き刺さった。
尤も、保人自身も二度と関わるつもりはなかった。いや、正直に言えば、出来ることなら梗子の顔など二度と見たくない。裁判のとき、あの女が向けてきた目、軽蔑と嘲笑を混ぜ合わせたような、冷ややかな光を帯びた目は、今もなお脳裏に焼き付いている。思い出すだけで身震いする。あの女は悪魔だ、とあの時確かに思った。
それでも。そんな梗子が産んだ子であっても、その子は紛れもなく保人の子供だった。血の繋がりを無視することは出来ない。「気にするな」と言われても、無理な話だ。あの子は健やかに育っているのだろうか。母親に愛されているのだろうか。
梗子に母性があるなど、到底思えない。それでも保人が心配したところでどうしようもないのだ。町で赤ん坊を見かけるたびに、ふと胸の奥にあの子のことがよぎる。いつか、あの子と出会う日があるのだろうか。そんな思いを胸に抱えたまま、保人は淡々と働いていた。
「岡野さん、今日、残業できますか?このままじゃ納品が期日に間に合わなそうで」
「ああ、ええ、大丈夫ですよ」
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