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深層の滓(しんそうのおり)  作者: 麗 未生(うるう みお)
第二章 遠因(えんいん)
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遠因2-3-⑤:出所の朝、前科者の未来は……

 もしも梗子に出会わなければ。今も娘と妻と三人で、ささやかでも穏やかで幸せな生活を送っていたはずだった。もしもあの夜、酒を口にしなければ、そんな思いばかりが何度も浮かび上がる。後悔しても遅い。家庭も、仕事も、未来も、全て失ってしまった。


 そして今日――刑期を終えて出所したものの、保人には行く当てもなかった。両親は既に亡く、妻とは離婚し、今どこにいるのかさえ知らない。富美子は一度も面会に来なかった、当然だ。もとより親しい友人も少なかった。結局、刑務所にいる間、面会に訪れる者は誰一人いなかった。


 文字通り、天涯孤独。これから何をすればいいのか。どうやって生きていけばいいのか。出口の見えない問いばかりが胸を締めつける。結婚前に貯めていた貯金も、慰謝料代わりに富美子が全て持っていった。それも当然だと保人は思い、同意した。彼女には散々苦労をかけ、心に傷を残したのだから。


 ただ一つの救いは、刑務所に入る直前に勤めていた会社から出た最後の給料がそのまま通帳に残されていたことだ。富美子は、それだけは置いていった。根こそぎ奪われても文句は言えない立場なのに、残してくれた。通帳と印鑑は彼女が刑務所に郵送してきてくれており、出所のとき、僅かな報奨金と一緒に手渡された。


 その通帳を握りしめながら、保人は自分が立っている足元の不確かさを痛感する。保人はポケットから、出所の際に渡された封筒を取り出した。中には12,431円。その足で駅に向かい、途中で立ち食い蕎麦屋に足を止める。


 空腹に耐えきれなかったのと、久しぶりに「外の食べ物」を口にしたいという思いが胸にあったからだ。これから住む場所も探さなければならない。仕事も、前科者となった身ではすぐに見つかるかどうか分からない。


 無駄にできる金ではないのだと分かってはいたが、それでも今は温かなものを求めた。頼れるのは保護司の先生だけ。その心細さが背を押していた。


「いらっしゃい!ご注文は?」

「あ、あの……かけ蕎麦を」

「はい、かけ一丁!」


元気の良い店員の声に、不意に胸の奥がほどけた。ああ、外に出て来たのだ。ようやく自由の身になったのだ。そんな実感が込み上げる。湯気を立てる蕎麦の香りに包まれ、丼を手にすると、熱い汁が喉を通った瞬間、涙がこみ上げてきた。危うく声を上げそうになり、慌てて目を伏せる。


(どうして、こんなことになってしまったのだろう……)


ただ地味に、平凡に生きていければ良かった。贅沢も望まず、家族と暮らすだけの人生。それで充分だったはずだ。それなのに、もう平凡とは呼べぬ人生を背負ってしまった。人に後ろ指をさされ、世間から冷たい視線を浴びながら生きていかねばならぬ。


 ふと脳裏に浮かぶのは、娘の顔だった。あの子は元気で、よく笑う、愛らしい子だった。今、どうしているだろう。もう父のことなど忘れてしまっただろうか。こんな身では、会いに行くことすら許されない。だが、それでも……。


(まどか)……)


娘の名を心の中で呼んだ瞬間、胸が強く締めつけられる。会いたい。しかし叶わない。その思いだけが、胸の内で堂々巡りを繰り返していた。


 保護司は面倒見の良い人物で、保人の境遇を理解し、身寄りのない彼の身元引受人となってくれた。さらには住む場所まで世話をしてくれ、働き口まで探してくれた。その親切がどれほどありがたく、救いであったか。人の善意に、これほど胸を打たれたことはない。


 紹介された職場は小さな町工場だった。給料は以前の三分の二にも満たなかったが、働ける場所があるだけで十分だった。自分ひとりが食べていければ良い。むしろ少しでも節約し、娘の和のために残してやりたい。そんな思いが、常に胸にあった。


 職場の人間は皆、保人に前科があることを知っているようだった。この職場に保護司が人を紹介してきたのは初めてではないようだ。陰でヒソヒソと囁かれ、時には面と向かって嫌味を言う者もいた。けれど、保人は反論することなく、黙々と仕事に打ち込んだ。何を言われても仕方がない、そう覚悟していたのだ。

お読みいただきありがとうございます。

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