遠因2-3-④:笑う女と壊れた人生
翌日、留置場に現れた富美子の顔を見た瞬間、保人はさらに打ちのめされた。夫に面会に来たというより、見限った者を確認に来たような目。呆れ果て、言葉すら出ない様子だった。
酔いの醒めた保人自身も、なぜあんなことになったのか理解できなかった。ただ、自分が情けなくて仕方がない。そんな保人を富美子はただ冷めた目で見下ろすだけだった。そしてその翌日、再びやって来た富美子は離婚届を持参し、無言のまま差し出した。署名を拒む気力は残っておらず、保人は震える手で名前を書いた。
「酒を勧めたのは彼女なんだ。瓶を割ったのも……」
取り調べの時に必死で訴えるも誰も信じない。彼女――三芳梗子は、逆にこう言った。保人が酔って押しかけ、いきなり暴力を振るった。ずっと付きまとわれて逃げていたが、見つかってしまい、もう少しで殺されるところだった、と。
保人は否定した。梗子に暴力を振るったことなど、後にも先にもあの一度きりだと。しかもあれは酔っていて、彼女の暴言に頭に血がのぼり、渡された酒瓶を衝動的に振り回しただけ。傷つけるつもりなど毛頭なかった。ただ、ただ話をしたかっただけなのだ。何度も叫んだが、その声は誰にも届かない。警察官たちも梗子に同情的だった。
しかも、保人が以前酒に酔って警察沙汰を起こしたことまで持ち出される。当時は誰も怪我をしていなかったため、説諭だけで済み、前科はつかなかったが、富美子が苛立ちからか「結婚前にもこんなことがあった」と告げてしまったのだ。用途望量を揮う、そんな印象を警察官が持つには十分で、保人の言葉はただただ信用を失っていくだけだった。
「可哀想に。あんたの子を産んで、一人で静かに暮らそうとしていただけなのに……。あんな目に遭わされて、彼女がどれほど怖い思いをしたのか、分かるか?」
畳みかけるような刑事の言葉。
「すっかり怯えていたんだぞ。可哀想だとは思わないのか。いい加減、自分の非を認めて、正直に話せ」
そうして、保人は連日のように責め立てられた。段々と話す言葉をなくしていった。そして思い返すのは、あの夜の梗子の顔だ。梗子には以前から、自分が酒で失敗したことを話していた。
「だから、もう二度と飲まない。酒を飲むと気が大きくなって、制御できなくなるんだ」
そのことは梗子だって十分に分かっていたはずだ。なのに梗子はわざわざ強引に酒を飲ませた。思い返すと、あれは偶然ではない。わざとだったのではないか、そんな風に思えてくる。
こうなることを最初から分かっていた?保人を遠ざけるために、あんな危険な真似までしたのか?それはさすがに強引すぎるとも思える。もし、ほんの少しでも手元が狂えば、梗子は本当に死んでいたかもしれない。だが、それでも彼女は仕掛けた。あの成り行きを面白がっているようにさえ見えたのは錯覚か?
保人の脳裏に浮かぶ疑念と共に、あの場面が何度も甦る。刑事たちは彼女が怯えていたと言ったが、怯えていたどころか、あの時の梗子は、確かに笑っていた。血に濡れた顔で、不気味に、まるでゲームでも楽しむかのように。
国選でやって来た弁護士は保人に言った。
「早く罪を認めた方がいい。このまま否認を続けるより、情状酌量の余地が出てくる。示談が成立すれば、罰金刑で済む可能性もある」
何度も諭され、結局、保人は梗子の言い分を全て認めた。どう取り繕おうと、梗子が自分の振り下ろした酒瓶で怪我を負ったのは事実なのだ。軽傷で済んだとはいえ、自分の手で傷つけてしまった。それを否定しても誰も聞く耳を持たない。梗子に挑発されたなどと、馬鹿げた話でしかないのだ。
あの夜は、自分でも理解できないほど現実感がなかった。まるで何かに操られているような奇妙な感覚。梗子の言葉と酒に誘導された、それを口にしても、誰一人信じてはくれない。
だが示談は成立せず、保人は起訴された。梗子は最初から応じるつもりなどなかったのだ。弁護士は「初犯だし、相手も軽傷だから、悪くても執行猶予がつくだろう」と言っていた。だがその予想は裏切られる。裁判の時に梗子が、こう言い放ったからだ。
「これは傷害なんかじゃない。殺人未遂よ」
その言葉で情勢は一気に変わり、実刑判決が下った。あの時の彼女の表情は忘れられない。怯えも怒りもなく、ただ愉快そうに、面白がるように口角を上げていた。その瞬間になって保人は漸く、とんでもない女に関わってしまったのだと気付いた。
梗子が何故、こんなことをしたのか、その理由は分からない。ただ彼女は自分の掌で思い通りに動き、転げ落ちて行く男の姿を見て楽しんでいる、それだけは分かった。
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