錯綜1-1-②:優しい仮面の裏側
母が死んでから、その友人はさらに頻繁に僕たちの家に来るようになった。「母より父のほうが古い友人なのだ」と彼女は言った。仕事が休みの日は、ほぼ必ず来て、まるで母親のように振る舞った。父は、すっかり彼女を頼りにするようになっていた。
彼女には娘がいた。まだ幼稚園で、妹はその子をまるで自分の妹のように面倒を見ていた。ちょっとお姉ちゃんになったような気分で、嬉しかったのかもしれない。
僕も最初のうちは、優しくていい人だと思っていた。彼女は、僕たちの家の家事をせっせとこなし、食事の用意もしてくれた。でも、それは本当に不味かった――。
母の料理がとても美味しかったから、余計そう感じたのかもしれないが、「これを食べるくらいならコンビニのおにぎりかカップ麺のほうがずっと美味しい」と心から思った。
彼女は、あまり食べない僕たちに「食の細い子たちねえ。成長期なのだから、ちゃんと食べなさい」と言って、その料理を強要した。それに彼女の子供はそんなまずい料理でもガツガツ食べた。きっと生まれた時から食べているからこの味に慣れているんだと思った。父も何も言わず、黙々と食べていた。彼女が帰ると、父はいつもこう言った。
「誰にでも得手不得手はあるものだ。でも、一生懸命作ってくれているのだから、その気持ちを無にしてはいけないよ」
それって父も不味いって思ってるってことじゃないのか、って思ったけど口には出さなかった。
「……あの人、これからもずっとうちに来るの?」
僕がそう尋ねると、父はうなずいた。
「来てもらって助かってるだろ。ウチの事情を知っていてまだ来てくれているんだ。あんな優しい人、他にいないよ」
「でも、あの人が来なくても、僕ちゃんと家のことできるよ」
そう言うと、父はちょっと困った顔をしたが、
「せっかくの好意なのだから」
と、少し照れたように答えた。父のその表情は子供心にもちょっと気持ち悪いと感じた。そしてそのとき、まだ小学生だった僕でさえ思った。
――父は本当に、女を見る目がないのだな、と。
彼女は看護師で、その後、祖母が入所していた医療刑務所に自ら希望して異動し、祖母の世話をするようになった。祖母の面会に行くと、いつも彼女が傍らにいた。父は彼女に大いに感謝し、すっかり気を許していたが、僕はどこか気味の悪さを感じていた。彼女が祖母を見る目に、優しさや愛情を感じなかったからだ。とても祖母を心配しているようには思えない。なのに、なぜ彼女は自ら進んで祖母のそばにいることを選んだのだろう。それも、父の気を引くためだったのだろうか。
その頃、祖母の認知症はさらに進行していたように思えたが、ときおり普通の日もあった。僕たちが面会に行くと、祖母はいつも嬉しそうだった。祖母は、自分がいる場所が刑務所だとは思っていなかったのだろう。
ある時、祖母が不思議なことを言った。そのときの祖母は、少しも呆けているようには見えなかった。
「私じゃないのよ」
祖母はそう言った。僕が「何のこと?」と聞き返すと、
「私じゃないの……私は何も……」
と繰り返した。事件のことを言っているのだろうか、と僕は思った。
「お母さんのこと?」
そう尋ねると、祖母は怯えたような顔をした。
「近くにいるの……すぐ近くに……悪い怪物がいるの……」
祖母は、心の底から恐れているようだった。
「怪物?」
僕がそう訊ねたとき、彼女が近づいてきた。すると祖母はぴたりと口を閉じた。
「澄子さん、今日はお孫さんたちが来てくれて良かったですね」
彼女はにこやかにそう言ったが、祖母の表情はさらに引きつって見えた。でも、それも一瞬のことで、すぐに何事もなかったように別の話をし始めた。祖母の言葉に意味などなかったのかもしれない。けれど、あのときの祖母の表情と言葉は、今でも僕の心に残っている。
そして僕が中学に上がった年、祖母は亡くなった。祖母の死後、祖父は刑務所から出てきた。それから間もなく、父は「再婚しようと思っている」と言った。相手が誰かは、聞くまでもなかった。父は、彼女がずっと家に出入りし、子どもたちも懐いていると思い込んでいたのだろう。
でも、僕は反対した。そして妹も「絶対に嫌だ」と言い張った。妹も、何かを感じ取っていたのだろうか。父は困惑したが、子ども二人が揃って反対しているのを押し切ることはなかった。そして間もなく、祖父が出てきて一緒に暮らすようになり、家のことは祖父が色々とやってくれるようになった。
ある日、父は家にやって来た彼女に言った。
「申し訳ないが結婚は無理だ。子供達はきっと亡くなった母親の事が忘れられないんだと思う」
当然、父と結婚できると思っていた彼女の顔つきは、みるみる変わった。まるで鬼のような形相で、父や僕たちをすごい剣幕で罵った。
「今までどれだけ面倒見てやったと思ってんのよ!ふざけるんじゃないわよ」
今までずっと優しい女の仮面を被っていたのに、烈火のごとく怒る彼女の顔は醜悪だった。その様子に父もようやく彼女の本性に気づいたのか、彼女が帰った後、父はホッとしたように肩を落とした。その後、彼女から何度か連絡があったようだが、父は取り合わなかったらしい。
そして今、僕は高校生になった。ある夜、家に帰って来た父が珍しく難しい顔をしていた。
「父さん、どうかしたの?」
「彼女が、死んだそうだ」
「彼女って?」
「今日、警察が会社に来た。……殺されたらしい」
あれ以来会っていなかったからすっかり忘れていた彼女、三芳梗子は――何者かに殺された。
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