遠因2-3-③:仕組まれた悲劇――保人の転落と梗子の罠
突然、声色が変わった。保人は思わず彼女の顔を見つめ返す。
「え……な、何のこと?」
「決まってるでしょ。あんたのことよ。私が、あんたなんか本気で相手にするわけないじゃない」
「で、でも……好きだって。何度も、そう言って……」
「誰でも良かったのよ。人のものを奪ってみたかっただけ。私がやられたことを、誰かにやり返して憂さ晴らしがしたかったの。あんたは手ごろで言いなりになりそうだったから相手してやったの」
彼女の顔が大きく歪んで見えた。
「でも子供は誤算だったわ。まさか妊娠するなんて思わなかった。なんで私が、あんたの子なんか産まなきゃいけないのよ」
彼女は吐き捨てるように赤子を見やる。その目には愛情のかけらもなかった。
「あんたの子だと思うだけで、全然可愛くないの。これが智樹さんの子供だったら……」
「……ともきさん? 誰だ、それ」
「誰だっていいでしょう。あんたには関係ないのよ。とにかく、私はあんたなんか全然好きじゃない。もう二度と近寄らないで」
彼女は吐き捨てるように続けた。
「平凡で、何の取り柄もない男のくせに。私を抱けただけでも、いい経験だったと思いなさいよ。……今思い出すと虫唾が走るわ。気持ち悪い」
その言葉が、刃のように保人の胸を突き刺す。頭の中で何重にも反響し、息が詰まる。家庭を捨て、全てを投げうってここに来たのに。ただの憂さ晴らしだったというのか。酔いと共に、怒りが沸き上がり、心の奥底から煮え立つ。そんな保人を、彼女は冷笑して見下ろしていた。
「ほら、怒れば?あんたみたいな能無しでも、怒るくらいは出来るでしょう」
挑発するように彼女は吐き捨てると、横に置かれていた酒瓶を椅子に叩きつけた。ガラスが砕け散り、乾いた音が部屋に響く。何が起こっているのか分からない。彼女はあれで保人を殴るつもりなのだろうか、そう思っていたら、その破片の中から彼女は割れた瓶の口を持ちこちらに差し出す。
「ほら、あげる」
保人は夢遊病者のような足取りで、無意識に田を差し出しそれを受け取ってしまった。意識の奥で「受け取ってはいけない」と声がしたのに、身体が梗子の目に射すくめられて逆らえない。だが、その瞬間――。
「キャー!助けて!」
突如、彼女が叫び声をあげた。耳をつんざく甲高い声が、何度も、何度も繰り返される。
(何を言っているんだ、この女は……?)
混乱で思考が止まる。だが声だけは鼓膜を突き刺し、理性をかき乱した。
「うるさい!黙れ!」
怒鳴ると同時に、保人の腕はいつの間にか酒瓶を振り下ろしていた。瓶の破片が彼女の頭を掠め、鮮血が流れ落ちる。いや、手ごたは殆どなかったが、微かにかすったようにも思える。彼女は確かに血を流している。自分がやったのか?それすらも分からず、おずおずと手を伸ばす。
すると彼女は、痛みに歪むどころかニヤリと笑った。血に濡れた顔で赤子を抱きかかえると、そのまま外へ飛び出す。
「待って……!」
保人は我を忘れて追いかけた。彼女は隣の部屋のドアを激しく叩きながら叫ぶ。
「助けて!」
ドアが開いた。現れたのは、田舎から出てきたばかりのような少しぽっちゃりとした若い女性。化粧気もなく素朴な雰囲気に、保人は一瞬だけ安堵する。屈強な男でなくて良かった、などと思ってしまった。
「助けて!殺される!」
叫びながら彼女は赤ん坊を抱えたまま部屋に倒れ込む。その姿に、住人の若い女性は目を見開いた。頭から血を流し、必死で訴える母親の姿に誰もが同情するのは当然だった。保人の頭はもう真っ白だった。酒も相まって、目の前の状況が理解できない。ただ「捕まえなくては」という衝動だけが体を動かす。
「そいつをよこせ!」
部屋に踏み込んで手を伸ばす保人の前に、若い女性が立ちはだかった。彼女を庇うように一歩前に出て、睨みつける。
(女なら押しのけられる。連れ戻すくらい簡単だ)
そう思ったのも束の間。次の瞬間、女性の手が保人の胸ぐらを掴み、見事な足払いで身体を宙に浮かせた。
「うっ!」
背中を強かに打ちつけ、呼吸が止まる。激痛と同時に視界が暗転し、そのまま意識を失った。
気がつけば、周囲には人だかり。視界に入る眩しい赤い光。それがパトカーの回転灯だと気づくのに時間はかからなかった。そして保人を見下ろす複数の警察官の冷たい視線。
(……終わった)
その一瞬で悟った。取り返しのつかないことをした、と。保人はその場で傷害の現行犯として逮捕された。
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