遠因2-2-③:虚構の中に見つけた穏やかな生活
自分の言いたいことだけを言ってさっさと寝てしまった夫に、いや、男に一瞬、思考が止まった。
寛子は、自分の寝具の上に座ったまま、その寝顔をじっと見つめる。恋をしたわけではない。彼を好きになって結婚したわけでもない。けれど、“夫婦としてやっていくのだ”という覚悟だけは、確かに胸に抱いていた。結婚して二ヶ月、慣れない料亭の手伝いも、不器用なりに一生懸命やってきた。
それなのに、彼には最初から夫婦になる気などなかったのだ。胸の奥で何かが静かに崩れ落ちる音がした。惨め、という言葉にすら届かない、名のない痛み。結婚の先に、こんな事実が待っているなんて。想像したことも、想像しようとしたことすら、一度だってなかった。
(どうしよう……)
これからどうすればよいのか、何一つ答えは見つからない。頭の中は重い霧に覆われたまま、夜が明けていった。その晩はとうとう一睡もできなかった。けれども翌日、寛子は何事もなかったかのように振る舞い、いつも通りの一日を過ごした。答えを出せないまま、ただ時間だけが流れていった。
あの夜以来、夫は少し変わった。以前のように、寛子が寝静まってから寝室に入ることはしなくなった。寛子が起きていようが眠っていようがお構いなしに、当然の顔をして寝室に入り、静かに布団に横になる。きっともう、自分を抱かない理由を言い繕う必要がなくなったからだろう。
寛子が黙っていたので、夫は寛子があの条件を呑んだのだと思ったのか、あれから一度も話を蒸し返してはこなかった。寛子もまた、口を閉ざせば波風は立たない、実家も安泰のままだと、そう思うようになっていった。
夫は優しい人だった。男色であることを除けば、これといった不満もない。姑に厳しくあたられて落ち込んだときも、彼はいつも慰めてくれた。そういう一面を見れば、この生活も悪くないのではないかとすら思えた。ただひとつ、義父母が繰り返す「孫はまだか」という言葉だけは、胸を抉った。決してかなうことのない願いを、耳にするたびに「できるはずもない」ということを痛感させられるからだった。
そうして三年という歳月が過ぎた。慣れとは恐ろしいもので、こんな関係でも続けていれば、それが平穏に思えてくる。姑は厳しいながら理不尽ではなく、若女将としての立場にも次第に馴染んでいった。寛子がどこかぼんやりした様子なのにも、
「あなたって、つかみどころのない人ねえ」
と、ため息をつくばかりだった。仕事は未熟でも、周囲の人々は温かい目を向けてくれる。傍目には、寛子と夫は普通の夫婦に見えただろう。休日には一緒に買い物に出かけることさえあった。寛子にとって夫は、いつしか“よき友人”のような存在になっていた。こういう生温かい生活も悪くない、と思っていたのである。
だが、その均衡は徐々に揺らぎ始めた。夫の表情に、以前にはなかった変化が見え隠れする。やけに浮き立った様子の日もあれば、沈み込むように黙り込む日もある。心がどこか遠くにあるような気配。その姿に、寛子は薄氷を踏む思いで胸騒ぎを覚えた。
「最近……何かありましたか?」
おそるおそる尋ねると、夫は「何でもない」と首を振って、考えるように言葉を吐き出す。
「あなたが傷つくことは何もありません。だから、心配しないでください」
気遣うような声色だった。けれど、その言葉はむしろ不安を深めるものとなった。そして、悪い予感は的中した。
ある日、夫は店の若い見習い板前と一緒に買い出しに出たきり、戻ってこなかった。店中が騒然となる中、寛子はすぐに直感した。二人は駆け落ちしたのだ、と。
夫は両親に宛てた書き置きを残していたが、寛子への言葉は一文字もなかった。本当の夫婦ではなかったのだから……そう思えば、残されなかったのも当然なのかもしれない。だが、それを突きつけられることで、この三年間の時間が、すべて空しい幻だったように思えてならなかった。
「寛子さん……これはどういうことなの?」
書き置きを見た義両親が、責めるような目を向けてくる。そこには、夫の苦しい胸の内が綴られていた。
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