遠因2-2-⓵:秘密に覆われた結婚生活
二.
「花音、学校まで送っていくわね」
「大丈夫、ひとりで行けるよ。お母さん」
「駄目駄目、何があるか分からないのだから」
寛子がそう言うと、娘の花音はくすっと小さく笑った。花音は小学校五年生。幼さを残しつつも、自立心が芽生えはじめている年頃だ。寛子にとってはかけがえのない宝物であり、守るべき存在であった。
夫の宜之は三歳年下。優しく誠実で、頼り甲斐のある人だ。幼馴染であったものの、子供のころは彼と結婚するなど想像もしなかった。けれど、気づけば隣にいて、今や家族となった。
寛子にとって、今が人生で最も幸せな時間だった。思い返せば、過去は幸せとは程遠い世界にいたようにも思う。だが、その運命を受け入れるしかないと諦めてきた。
寛子の実家は代々続く呉服屋で、かつては手広く商いをしていた。しかし、時代の移り変わりとともに着物業界は下火になり、特に高級品は売れなくなっていた。台所は日に日に苦しくなっていったが、子供の頃から何不自由なく育てられた寛子は、その事情に気づきもしなかった。
二十五歳のとき、親の勧めで見合いをした。相手は高級料亭の息子で、見た目は平凡だが誠実そうに見えた。話はとんとん拍子に進み、三ヶ月後には結納を交わした。寛子は政略的な意味合いを考えもしなかったが、両家の親はしっかりと目論見を持っていた。
料亭の女将など務まるのだろうか。そんな不安はあった。だが、親に逆らったことのない寛子は勧められるままに受け入れた。男性経験もなく、結婚とはこういうものだとも思った。大恋愛なんて、ドラマか本の世界にしかないものだ、と。結納から二ヶ月後、先方の料亭で内々に式を挙げた。
最初はそれなりに派手な披露宴を、予定していたようだったが、相手の男性がそういうのは苦手だと言ったらしい。寛子もそうだったので、その意見には救われた思いだった。
しかし、相手の思惑はまるで違っていた。結婚初夜、寛子は緊張と期待に胸を高鳴らせ、夫が部屋に入ってくるのを待っていた。だが彼は寛子に視線も寄せず、自分の布団に潜り込んで眠ってしまった。声をかけられることすらなかった。拍子抜けしたが、「今日は式で疲れているのだろう」と無理に自分を納得させた。
しかし翌日も、その翌日も変わらなかった。夫は一度も寛子に触れてこない。理由を問いただしたかったが、それははしたないことだと思えて、言葉にできなかった。
その生活は二ヶ月続いた。さすがに異常だと感じはじめた寛子は、ある夜、眠らずに夫を待った。いつものように、彼は一時間遅れてそっと寝室に入ってきた。ところが布団に座っている寛子を見て、ギョッと目を見開いた。
「お、起きていたの?」
「お尋ねしたいことがあります」
寛子は冷静な声で切り出した。
「な、何ですか?」
夫は焦りを隠しきれず、落ち着かない様子だった。
「あなたは、私のことがお嫌いなのでしょうか?」
「あ、い、いえ……そういうわけじゃ……」
「じゃあ、どうして……」
そこまで言うと、言葉が喉で止まった。どうして抱こうとしないのか。本当はそう聞きたかった。けれど、口にするにはあまりにも恥ずかしく、唇が動かなかった。しかし、ここまで言えば夫にも伝わるはずだ。その途端、彼は突然床に両手をつき、ひれ伏すように頭を下げた。
「ごめんなさい!」
あまりに唐突な謝罪に、寛子は驚き言葉を失った。
「ごめんなさいって、どういうことですか」
胸の奥に、嫌な予感が広がる。もしかして、他に好きな人がいるのだろうか。だが、そうであればなぜ結婚したのか。生活を共にして二ヶ月、そんな気配は一度もなかった。いや、気づけなかっただけかもしれない。寛子はそういうことに疎い。
「あなたが悪いわけではありません」
「他に……お好きな方が、いらっしゃるのですか?」
寛子の問いに、彼は首を振った。
「いえ、今はそういう人はいません。でも……」
彼は言葉を濁し、唇を噛んだ。言いにくい秘密があることは明らかだった。
「言わなければ駄目ですか……?」
彼は困惑した顔で寛子を見つめた。
「出来れば、ご説明願いたいです。もし私に落ち度や不満があるのなら、教えてください。直す努力をしたいと思います」
寛子の真摯な言葉に、彼はうなだれた。
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