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深層の滓(しんそうのおり)  作者: 麗 未生(うるう みお)
第二章 遠因(えんいん)
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遠因2-1-㉒:良心の欠落と同調の狂気

「でも、好きな人はいるんでしょう?そこには愛情があるんじゃないの?」

「まあ……それが一種の矛盾なんだけどね。ただ愛情じゃなくて執着かも知れない」

「執着?」


鳴海は深く息を吐いた。


「ああいう人間は、一度“この人だ”と決めたら絶対に諦めない」

「でも、身を引いたって言っているんでしょう?」

「そう。理性と、プライドがあるからね。誰かに執着しているなんて、周りに思われたくないんだ」

「でも、あなたには話したじゃない」

「それは、私が第三者だからだよ」


鳴海は苦笑した。


「医者だし。彼女にとって私は自分の人生に関わらない傍観者。路傍の石と同じ。それに何かを見たとか、したとか、そんな直接的なことは一言も言ってない。どれもこれも戯言程度。」

「ふーん。じゃあもし、その傍観者じゃない人間に事実を知られたら?」

「……きっと排除する。何も躊躇うことなく、笑いながら平然と」

「何だか、怖いわね」

「うん。怖い」


再び沈黙。受話器越しに互いの息づかいだけが響く。やがて桃香が思い出したように問いかけた。


「で、その本当の目撃証言っていうのは、引き出せそう?」

「それは難しいでしょうね」

「難しい?警察が行って、問い質しても?」

「彼女が嘘を吐いている証拠は、何もないんだよ」


鳴海は唇を噛んだ。


「例え、直接問い質したとしても“嘘を吐く理由”が説明できなければ立証できない。だって、何の得にもならないことを、彼女はしているから。全く関係のない赤の他人を庇ってるんだし」

「じゃあこれ以上、無理ってこと? 犯人を見ているのに、その証言を引き出せないまま手を拱いて見ていろってこと?」

「そうは言わないけど……」


言葉を濁しながらも、実際どうすればいいのか鳴海には分からなかった。


「とにかく、もう少し様子を見て考えるよ。多分、まだ彼女は私のところに来るだろうから」

「分かった」


そうは言ったものの、良心に訴えて通じる相手ではない。そもそも、彼女には“良心”というもの自体が存在していないのかもしれない。人を殺すことすら、罪と認識していない。被害者に対する憐憫の情など、欠片もない。


 それからの日々は、何の進展もなく過ぎていった。核心を突こうと試みても、梗子はわざとなのか、それとも本当に気付いていないのか分からない態度で、話題をいつの間にかはぐらかしてしまう。


 それでも鳴海は、彼女に惹きつけられていた。医師として患者と向き合う以上の、研究者としての好奇心に近いものが、心の奥に芽生えていたのだ。言い方は悪いが、三芳梗子という人間は「研究対象」になり得る存在だった。彼女のような人間が、どんな時に心を動かされるのか。何を感じ、どんな言葉を口にするのか。その全てが鳴海には異様に興味深く映った。


 三ヶ月が過ぎた頃、梗子の様子が少しずつ変わっていった。どうやら、かつて好きだったという男性と再び会うようになったらしい。診察室で彼女は何度も同じ言葉を繰り返した。


「彼は私のことをすごく心配してくれてるの。子供を抱えて苦労している私を見て、放っておけないのよ」


その口調は穏やかで嬉しそうであった。しかし鳴海には、別の危うさが見え隠れしていた。梗子は彼の妻のことをほとんど口にしない。まるで存在しないかのように扱うのだ。だが、鳴海には分かっていた。彼女にとってその女性こそが「排除すべき一番の存在」であるはずだと。


 彼女の中に潜む起爆剤に、いつ触れてしまうか分からない。それを思うと鳴海は恐ろしくもなる。


「もっと外に目を向けてみたらどうかな」


遠回しにそう告げてみたが、梗子は受け入れなかった。


 そのうち、彼女が鳴海の元を訪れる回数は目に見えて減っていった。そしてある日突然、病院をやめた。前振りもなく、鳴海には一言の報告もなかった。自宅も引っ越したようだった。しかし、鳴海は何となく近いうちにそうなる予感はあった。


(やっぱり……)


彼と再び会うようになれば、鳴海はもはや「必要ない存在」になる。彼女にとって鳴海は、会えない間の捌け口に過ぎなかったのだ。今や彼女の世界は、その男だけで満ちている。嫌な予感が胸を締め付ける。けれど、何もできない。梗子はまだ何もしていないのだ。罪も証拠もない人間を「指名手配」してもらうなんてこともあり得ない。

お読みいただきありがとうございます。

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