遠因2-1-⑲:仮面の下に潜むもの
(あれは……彼女にとって自然な感情の吐露だったのかもしれない)
そう考えると、背筋が冷たくなる。彼女が診察に来たのは、ただの気まぐれか、それともまた来るだろうか、そう思っていたら四日後、梗子はまた診療室に現れたのだ。
「先生、聞いてくださいよ」
その日は終始、職場の同僚への愚痴で埋まった。毒舌を交えながら、彼女は愉快そうに笑っていた。まるでここが、自分の鬱憤を吐き出すための“安全なゴミ箱”であるかのように。
やがて梗子は週に一度か二度のペースで通ってくるようになった。いつも内容は他愛のない話だ。だが、それがむしろ不気味だった。彼女は一見“ただのストレス解消”をしているように見えるが、その裏に別の感情を隠している気がしてならなかった。
鳴海の心に、ある安堵も生まれていた。梗子が「彼」とはもう会っていないらしいことだ。どうやら“身を引いた”というのは本当らしい。もし彼が傍にいたら、梗子の「人を殺すかもしれない」という言葉が現実になりそうで怖かったからだ。
しかし、肝心の話は一向に進展しない。鳴海も不用意に話を誘導して梗子を遠ざけるわけにはいかず、日々探りを続けるしかなかった。
時折、梗子は子どもの話題に触れるが、その口ぶりからは愛情の欠片も感じられなかった。子どもは最近ようやく一歳を迎えたばかりだというのは聞き出せたのだが、子供は親を選べない、という言葉ばかりが脳裏に何度も浮かんだ。そして胸の奥に小さな痛みを覚えた。
ある時、鳴海はひとしきり梗子が話し終えた時に、思いついたように口にした。
「少し、心理テストをしてみませんか?」
「心理テスト?」
「ええ。三芳さんの心の裏側が、少しだけ見えるかもしれません」
梗子は口元を吊り上げて笑った。
「面白そう」
その笑みには挑発めいた色があった。こんな若い医者に、自分の心なんて分かるわけがない。そう思っているのだろう。だが、それこそ鳴海の狙いでもあった。そう思われるように接してきた。軽い質問を幾つか重ねた後、鳴海は声を落とし、静かに問いかけた。
「もしあなたが、ある日、ばったり殺人者に遭遇したら……どうしますか?」
梗子の唇がにやりと歪む。鳴海の問いを楽しんでいるのが見て取れる。明らかに一般的な反応とは違う
「殺人者って、どういう?」
梗子は首を傾げて、まるでその問いかけを楽しむかのように聞き返す。
「どういうって?」
鳴海は戸惑いながら反復した。
「ほら、私を殺そうとしている人なのか、それとも逃げている連続殺人者にばったり会ったのか、状況で対処は変わるでしょう?」
「え、あ、ああ……そうね」
(しまった……)
意気込んで投げかけた質問が、初手で返されてしまった。もうすでに会話の主導権を握られている気がした。
「じゃあ、その両方のケースで考えてみてください」
梗子は少し間を置き、わざと含みを持たせたように笑みを浮かべる。
「えっと……そりゃ、私を殺そうとしている人に会ったら、まずは逃げると思いますよ」
そう言いながらも、彼女はすぐに言葉を切り、ふっと視線を宙に漂わせる。
「でも……どうかしら」
「どうかしらって?」
鳴海は身を乗り出した。
「怖い、って思うかなあ?」
梗子は首をかしげ、子どもが不思議な問いに直面したときのように考え込む。
「怖くないんですか?あなたを殺そうとしている人が目の前にいるんですよ」
鳴海は思わず声を強めた。医師としての興味、いや、好奇心が膨らんでいく。
「先生ね、実は私、一度“殺されそうになった”ことがあるんですよ」
梗子は急に声を潜め、秘密を打ち明けるように言った。だがその顔に恐怖の色はまったくない。普通なら思い出すだけで体が震えるような恐怖体験だ。冗談なのか、鳴海を揶揄っているのだろうか。
「あ、今、先生、疑ったでしょう?」
梗子は唇の端を吊り上げ、挑発するように笑う。
「でもね、ほんとのことなの。ほら、見て」
そう言って、自分の頭を差し出し、髪をかき分けた。薄く白い線のような傷跡が額の横に残っている。
思い出すだけで体が震えるような恐怖体験だ。冗談なのか、鳴海を揶揄っているのだろうか。
「これ、その時の傷跡。酒瓶で殴られちゃったの。酷い目に遭ったわ」
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