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深層の滓(しんそうのおり)  作者: 麗 未生(うるう みお)
第二章 遠因(えんいん)
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遠因2-1-⑱:心理の駆け引き

「あら、いけない。もうこんな時間」


腕時計をちらりと見て、梗子は椅子から立ち上がった。


「もっとお話ししていたいけど、子ども迎えに行かなくちゃ。あ~あ、面倒くさい」


吐き捨てるような言葉。


「保母さんがうるさいのよ。時間に遅れると、本当に嫌な顔するんだから。こっちはただで見てもらってるわけじゃないのに」


梗子は眉を寄せ、さらに冷たい言葉が飛び出す。


「ほんと、頑張って働いたお金を、どうしてあの子のために使わなくちゃいけないのかしら。……勿体ないったらないわ。保育園で事故でも起きてくれないかしら」

「……事故?」


思わず問い返す。


「ええ。そうすれば子どもはいなくなるし、賠償金ももらえるでしょ。一石二鳥じゃない」

「一石二鳥って……お子さんが死んでもいいと思ってるのですか?」

「嫌だ、先生ったら。そんな顔して。冗談に決まってるじゃない。いくら私でも、そんなこと思うわけないでしょ」


しかし、その言葉にはまるで冗談らしさがなかった。


「あ、また来てもいいですか?最近ストレスが溜まっちゃって。話聞いてもらえてちょっとスッキリした感じなんで」

「もちろん。いつでも来てください」


梗子は満足げな笑みを浮かべ、足取りも軽く去っていった。医者である鳴海より、自分の方が優位に立っていると、思い込んでいることが手に取るように分かった。


その夜。鳴海は桃香に電話をかけ、梗子が診察に訪れたことを報告した。


「すごいじゃない。向こうから飛び込んできてくれるなんて。患者になったなら、いろんなこと聞き出しやすいでしょう?」

「そうは言っても……あんまり不自然に話を運ぶわけにはいかないのよ」

「ねえ。向こうは自分が精神的におかしいかもって思ってるの?だから垣内さんのところに来たの?」

「うーん……どうだろうね」


鳴海は少し考えてから、ゆっくり言葉を探した。


「多分、そうじゃないと思う。ただ、近くに気軽に話せる相手がいないのよ。偶然顔見知りになった私が心療内科医だった。それが“都合がいい”って思ったんじゃないかしら。秘密を口外しない相手としてね」


自分で言いながら、鳴海は唇を噛む。梗子のあの目。試すように、底を見透かすように笑った瞳が脳裏に焼き付いていた。


「ああ、じゃあ、見下されてるってこと?」


桃香の声は軽い調子だが、その奥に探るような鋭さがある。


「まあ、そんな感じかもね」

「へえ~、なんか面白そう」

「面白い?……全然よ」


鳴海は苦笑する。


「それどころか、ちょっと危ないタイプに見えるの」

「危ないって?」


桃香の声が急に真剣になる。


「まだはっきりとは言えないけど……彼女が最初に言ったことが――」


鳴海は言いかけて、そこで口を閉じた。心臓が小さく跳ねる。


「何よ。最初に何を言ったの、三芳梗子は?」

「ごめん、それは言えない」

「まさか、守秘義務なんて言うんじゃないでしょうね」


桃香の声が低くなる。


「何のために三芳梗子に近づいたのか、最初の目的を忘れてないわよね?」

「分かってる。でも、こんな風に患者として来るなんて思ってなかったし。患者が口にした言葉を、簡単に口外するわけにはいかないわよ」

「でも危ない感じなんでしょう?犯罪に発展しそうなことなの?」


桃香の声には苛立ちが混じる。


「だったら、むしろ話すべきじゃないの?犯罪を告発するのは当然のことでしょ、そこに守秘義務は関係ない」

「まだそうと決まったわけじゃない。様子を見て、もし本当に手に負えないと判断したら、その時は必ず話すわ」

「ふーん。まあいいわ。とにかく、報告だけは怠らないで」


冷ややかな言葉を最後に、電話は切れた。鳴海の手の中の受話器がやけに重く感じられる。この命令口調はやはり好きにはなれない。まるで自分が桃香の部下か、スパイにでもなったような感覚に襲われ、胸の奥に釈然としないものが広がった。


(それにしても……)


梗子が本当に診療に現れるなんて。しかも、最初に放ったあの言葉。


「人を殺してしまうかもしれない」


それを彼女は、何のためらいもなく口にした軽口ではなく、本音が滑り出たかのように。そこに罪悪感の影も不安も一切見えなかった。

お読みいただきありがとうございます。

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