遠因2-1-⑰:母性の欠落―梗子の不気味な本音
食堂で見せていた彼女の警戒心は、いまや跡形もない。それは鳴海が医師だからなのか。剥き出しの感情を垂れ流している。その姿に、彼女がずっと「聞き手」を求めていたのだと鳴海は気づく。だが同時に、この奔流のような語りに隠された真実と虚構をどう見極めればいいのか、頭を抱える思いだった。
鳴海は梗子の話を頭の中でまとめみる。彼女には好きな相手がいた。しかし、付き合っていたのかどうかは不明。梗子は「彼も自分を愛していた」と信じているが、それも彼女の思い込みかもしれない。彼は別の女性と結婚した。梗子は「奪われた」と感じている。
その後、失意の中で別の男と関係を持ち、望まぬ妊娠をした。だがその男は気弱でありながら酒に溺れ、彼女に執着した。梗子はなんとか手を切ったが、残された子どもは「愛する彼」とは無関係。だから愛情を持てない。
鳴海の脳裏に整理されたのは、そんな断片だった。だが、思い込みの強い人間は、自分に都合のよい物語を無意識に作り上げるものだ。彼女の話も、そのまま真実とは限らない。むしろ、裏返せば全く違う現実が隠れている可能性も大きいのだ。
「でも……お子さんのことは、ちゃんと育てておられるんですよね?」
鳴海は慎重に言葉を選んだ。
「だって、仕方ないじゃないですか」
梗子は肩を竦め、まるで他人事のように答える。
「生まれちゃったんですもの。犬や猫みたいに、ぽいっと捨てるわけにはいかないでしょう?そんなことしたら、周りから白い目に見られて、生きづらくなるじゃない」
唇に皮肉な笑みを浮かべ、言葉を続ける。
「でも、本当に全然かわいくないんですよ。父親に似ちゃったのかしらね。ああ、私って母性がないのかもしれません」
その声音には、温もりも何もない。感情が良く見えない。
「それで、殺してしまうかもと言っていたのは、そのお友達のことなんですか?」
「友達?」
梗子は一瞬首を傾げ、すぐに思い出したように笑った。
「ああ、そうね。だって酷いと思いません?横から入って、何もかも奪っていったんです」
眼差しが急に鋭さを帯びる。
「考えてみたら、どうして私がこんな目に遭わなきゃならないのかしら。好きでもない男の子を産んで、一人で苦労して……全部、元を辿ればあの子のせいなんですよ。ねえ、先生もそう思いません?」
鳴海は即答せず、息を吸った。肯定すれば梗子の思い込みを助長する。だが否定すれば一瞬で心を閉ざされるだろう。慎重さが求められた。
「その、お友達は、あなたの気持ちをご存じなんですか?」
「まさか」
梗子は鼻で笑った。
「もし知っていて奪ったんなら、とっくに殺してますよ」
表情を見る限りそれは冗談ではないように思われる。ただ大胆な言葉の割に抑揚がない。まるで何でもない会話、当たり前のことのように言ってのける。
「鈍感な子なんですよ。だから私、いろいろ教えてあげたんです」
「教えて、あげた?」
「ええ。あの子のお姑さんのこと」
梗子の声が急に楽しげになる。
「お姑さんがあの子の悪口をいっぱい言いふらしてるって。そう吹き込んでやったら、すっかり鵜呑みにして。ほんと、馬鹿な子」
くすくす笑いながらも、その瞳は冷たい。
「でもね、姑に嫌われてると分かったら、家を出て行くかと思ったのに……逆に二人目まで作っちゃって。あの子、神経図太いのよ」
梗子はそこで肩をすくめた。
「私ね、それを見てああ、もう身を引こうって思ったの。彼の幸せを願って。……ねえ先生、こういうのが本当の愛って言うんですよね?」
鳴海は一拍置き、静かに答えた。
「ごめんなさい。私は……男と女の愛情に関しては、まだよく分からないんです」
「あらっ」
梗子の目が丸くなる。次の瞬間、頬に妙な喜色が差した。
「先生、駄目じゃない。精神科のお医者様が、そんなこと言っちゃ」
「ほんと、そうですよね」
鳴海は苦笑でかわす。
「先生、恋人は?」
「残念ながらいません」
「あら、本当に残念」
梗子は唇に笑みを浮かべる。
「でも、考えてみたら女医さんって、男の人から見たら近寄りがたいのかも」
「そうかもしれませんね」
梗子は、どこか勝ち誇ったように見えた。自分は恋を経験し、母親にすらなった。鳴海は未だその領域に踏み込んでいない。そう思った途端、彼女の警戒は薄らいだようだった。つまり鳴海を自分より格下の人間だと踏んだのだ。
「でも、仕方ないですよね。今まで勉強ばっかりしてきたんでしょう?可哀想に」
わざとらしい同情を滲ませた声。
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