遠因2-1-⑧:封じられた過去と朱音の母の動揺
そこには奇跡的に難を逃れた朱音の娘・寧々もいた。特に怪我をしていたわけではないので入院は一週間程ですんだらしい。この子が朱音の娘かと思うと少し、感慨深い気持ちになる。朱音たちが暮らしていた家は処分が決まっていて、新しい住まいが見つかるまでの間、ここで預かっているという話だった。
「お医者様になられたのよね」
朱音の母がぽつりと声をかける。
「あ、ええ……」
「朱音がね、時々あなたの話をしていたのよ。『鳴海ちゃんはすごいの。ストレートでお医者様になったの』って。まるで自分のことのように誇らしげに話していてね」
「朱音が……」
「ええ。あなたのこと、とても気にかけていたみたいよ。『また会いたいなあ』って、よく言っていたわ」
その言葉に、鳴海の胸が締めつけられた。朱音は、誰かから鳴海の近況を聞いていたのだろうか。ずっと鳴海を思ってくれていたのだ。だが、自分はどうだろう。日々の仕事に追われ、この八年間、朱音のことを思い出すことはほとんどなかった。そう思うと、悔しさと後悔が一度に込み上げ、また目に涙が滲んだ。
「私……」
言葉を続けられずにいると、朱音の母がそっと孫の肩に手を置いた。
「寧々、この人はね、お母さんの一番の友達だったのよ」
傍らに立つ少女。朱音の娘は、暗い表情のまま鳴海を見上げた。その面影には確かに朱音を感じた。けれど、仏壇の前に置かれて写真の中にいる亡くなった子の方がより朱音に似ていたるように感じた。
「お母さんのお友達?」
寧々は不思議そうに朱音の母を見上げ、首を傾げて問い返した。
「ええ、そうよ」
朱音の母は柔らかく頷きながら、鳴海に視線を移した。その目には、懐かしさと、押し殺した哀しみが混じっていた。
「朱音はこの子のために……」
鳴海の口から、無意識に言葉が漏れた。この子が朱音のお腹に宿ったから、朱音はあの時、結婚という道を選んだ。鳴海は少し声を潜め、慎重に問いかける。
「あの……朱音のご主人って、どんな方なんですか?」
「公洋さん?そうね……とても良い人よ」
朱音の母は一拍置いてから答えた。その言葉の中に微かな逡巡が滲んでいるように鳴海には感じられた。
「朱音とは、いつ知り合ったんですか?」
「当時、朱音からは……何も?」
「ええ……」
「そう……やっぱり……」
朱音の母の声はわずかに震えていた。
「やっぱり?」
鳴海が思わず呟くと、彼女は敏感に反応する。
「あ、いえ。朱音から鳴海ちゃんとは高校卒業前にちょっと仲違いしたとは聞いていたのだけど、詳しい事は話してくれなかったから」
「そう、ですか…」
鳴海は唇を噛んだ。
「そうそう、公洋さんのことね。あの人は、朱音の家庭教師だったのよ」
「家庭教師?」
鳴海は驚いて思わず聞き返した。そう言えば、高校一年の終わり頃、朱音が「家庭教師に勉強を見てもらってる」と話していたことを思い出す。朱音はその先生を「とても良い先生だ」と笑顔で評していた。男性が苦手な朱音が、よく男の先生を受け入れたものだと不思議に思った記憶がある。
それがいつの頃から、男女の関係に変わったというのだろうか。確か三年の一学期くらいには、「先生、辞めちゃったの」と寂しそうに言っていたのを覚えている。ならば、家庭教師を辞めた後も会い続けていたということなのか。
だが、そんな話は一度も聞かされていない。心が「生徒」としての感情から「恋心」に変わり、鳴海にさえ打ち明けられなかったのだろうか。……いや、あの頃の朱音には、そんな雰囲気すら感じられなかった。
「その……朱音と、その先生とは。勉強を見てもらっていた時から、そういう関係に?」
鳴海は少し言い淀みながらも尋ねた。
「まさか。そんなことは絶対にないわ」
朱音の母は強い調子で否定する。
「二人は……とても仲の良い兄妹みたいだったのよ」
「でも、実際には……」
「そうね……実際には、そうね……」
「もしかして……他に理由が?」
鳴海がさらに踏み込むと、朱音の母の表情が急に変わった。
「理由なんて!」
声が強く跳ね返る。
「他の理由なんてあるはずがないわ。二人は愛し合って結婚した。そして寧々が生まれた。それが事実よ」
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