遠因1-3-⑩:親友に対するうしろめたさ
「私、家庭教師なんて……それに、」
そこで朱音は、ちらりと男性を見やった。言葉の続きを飲み込む。高校一年にもなって「男の先生は嫌だ」と言うのは子供っぽく思えたし、相手が男性であることを理由にするのも、どこか悪いように感じた。朱音が言い淀んでいたら母が口を開いた。
「でも、成績が思うように上がらなくて悩んでいたでしょう。勉強のコツを教えてもらうだけでも、きっとプラスになるわ。もちろん、あなたが嫌なら無理にとはいわないけれど」
母は朱音が男性に対して居苦手意識があるのを知っている。それでも読んだということは母なりに相手が信用のおける人物だと思ったということだ。
「私は……」
「今日は無料だから、お試しってことでどうですか?」
その男性、公洋が、朱音の顔を覗き込むように笑った。嫌な感じはしない。寧ろすごく優しそうだ。
「家庭教師といっても、やっぱり相性があるし。嫌だなあと思う先生とは、うまくやっていけないって僕も思うから」
その笑顔が、鳴海の兄・大祐の笑顔と重なった。夏休みにサッカーの試合を見に行って以来、何度か顔を合わせた大祐には、朱音は全く警戒心を抱かない。鳴海の兄という安心感が大きかったのだろうが、大祐は朱音にも鳴海と同じように気さくに接してくれた。鳴海の家に泊まったときも、大祐のおかげで緊張がほどけ、兄妹っていいなと、心底思った。
そして今、公洋の目が大祐の目と似ている気がして、警戒心が解けたのか朱音は思わず頷いていた。
「良かった。じゃあ、早速始めようか。このリビングのテーブルをお借りしていいですか?」
公洋が母に向かって言った。そのことに朱音はほっとした。家庭教師と聞いて、自分の部屋に二人きりでこもるのかと思うと、息苦しさを覚えていたのだ。リビングなら母もいる。公洋は、そんな気持ちを見抜いていたのかもしれない。
「ええ、もちろん」
母が頷くと、公洋は朱音に向き直った。
「じゃあ、何から始める?」
「えっと……化学が苦手で。二学期の学期末も思ったように伸びなくて」
他の科目は平均して上がっていた。化学さえ順調なら、総合で鳴海に抜かれることもなかったかもしれない。鳴海は理数系が得意だ。朱音も数学は好きだが、化学だけはどうしても頭に入らない。
「化学か。それはいい」
「は?」
「あ、僕、こう見えて理工学部。得意分野だよ」
「そうなんですか」
「うん。じゃあ、このまま始める?それとも着替えてくる?」
「あ……着替えてきます。すぐに」
そう言われて、まだ制服のままだったことに気づいた。
「急がなくていいから」
背中越しに公洋の声が届く。気づけば、緊張はすっかり消えていた。そして彼の教え方は驚くほど分かりやすく、質問にも丁寧に答えてくれた。学校の授業とは全然違う。いつしか朱音は、公洋が男性であることすら忘れていた。公洋は帰り際、母に向かって言った。
「じゃあ、面接の結果は塾の方へ。僕からも連絡しておきます」
「面接の結果って?」
朱音が尋ねると、母は笑顔を向けた。
「朱音と紫園先生の面接」
「今日の授業って、面接なの?」
「そういうことじゃない?」
「先生が私を選ばないってこともあるの?」
「あるでしょうね。先生もおっしゃっていたじゃない。お互い相性があるからって。無理だと思えば、上手く教えられないこともあるわ」
「そうなんだ……」
妙にがっかりしている自分に気づく。
「その様子じゃ、朱音の目から見た先生は合格ってことね」
「わ、私、別に」
「あら、じゃあお断りする?」
「そ、そんなこと言ってない。でも、いいの?」
「何が?」
「だって、家庭教師なんて贅沢じゃ……」
「あらあら、随分と親を見くびってくれたものね」
「そういうつもりは」
「分かっているわよ。朱音がいつも私達を気遣ってくれていること。でもね、朱音は私達の大切な1人娘」
「お母さん……」
「そりゃあ、贅沢三昧な生活できるほどじゃないけど、朱音の将来に役立つことの為ならどうってことないわ。お母さん、その為にちゃーんと節約もしてるんだから。朱音はそんなこと気にしなくていいの」
そうして翌週から、週二回、公洋は朱音の家庭教師としてやって来ることになった。断られなかったことに胸を撫で下ろす。公洋は不思議なほど男性を感じさせず、朱音は鳴海にこのことをなぜか言い出せなかった。
塾にも行かず、クラブも頑張りながら勉強している鳴海と比べ、自分がズルをしているような気がしたからだ。
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