遠因1-2-⑪:そして、訪れた終焉
「そういえば、前にも依智伽ちゃんのような女の子が、ここによく来てたのよ」
女性はふと懐かしそうに目を細める。
「ずうっと思っていたの、依智伽ちゃんが初めて来たとき、どこかで見た事がある様な気がして。依智伽ちゃん、あの子に少し似ているわ」
それは境遇のことを言っているのだろうか、それとも見た目の事だろうか。
「あの子も、毎日ひとりで来て、ずっと勉強してたわ。お父さんがいなくて、お母さんが働いてて……って。気づいたら来なくなったけど、どうしてるかしらね。もう高校生くらいかな。また会えるといいけど」
女性は独り言のように呟いた。どっちにしろ、依智伽には関わりのない子の話だ、とこの時はそう思っていた。
二学期が始まり、もう誰も万智のことを話題にしなくなったが、依智伽は時々、思い出す。今ごろ万智はどこにいるのだろう。意地悪をされた覚えしかないのに、なぜか懐かしく思える。いつかまた、会える日が来るだろうか。何となく会ってみたい、もっとずっとお互い大人になってから。そうしたら、もっといろいろ話ができるだろうか、と。
その年の暮れ、母が珍しく機嫌よく帰ってきた。
「神様が、ついに私の味方してくれたのよ」
依智伽に話しかけるというよりは、独り言のように呟いていた。
「邪魔なモノを消してくれる奴を見つけたの。これで、私が手を下さなくて済むわ」
不意に、母の視線が依智伽に向けられる。その笑顔がとても歪んで見えた。
「もうすぐ。きっと、もうすぐよ」
“邪魔なモノ”とは、何のことだろう?
「これでやっと、智樹さんと一緒に暮らせる。全部、あの男にやらせればいいだけ」
誰かが、依智伽を消しに来るのだろうか。どうやって?そんなことを思いながら日々を過ごしていたが、誰かがやってくる事はなかった。でもその時の母の顔は、何かに取り憑かれているようだった。いや、きっと母はずっと何かに取り憑かれている。母の頭から浩太の父親の影が消えたことは、一度もなかった。
もう二年近く会ってもいないのに。彼らはきっと、母や依智伽のことなんて、思い出すことすらないだろう。でも母は決して諦めていない。どうやったらあんなに執着できるのか、依智伽には分からない。依智伽はこれまで何ひとつほしいと思ったことがない。
「智樹さんは、ずっと私のことが好きなのよ。でも子どもたちに遠慮して、言い出せないだけ」
母はずっと、そう言い続けていた。
「智樹さんにも私にも、あんたらみたいな足枷があるから自由に生きられないの」
母がそう吐き捨てたとき、依智伽には“足枷”という言葉の意味が分からなかったので、あとで辞書を引いてみた。――「自由な動きを妨げるもの」「罪人の足を動けないようにする道具」。
つまり母にとっての足枷とは依智伽のことだ、そしてたぶん、浩太と舞奈も。母と浩太たちの父親との間を妨げる、重くて醜い鎖ということなのだろう。母が繰り返しその言葉を口にするたび、依智伽の胸には冷たい予感が広がっていった。
(もしかして、私を……消してしまおうとしている?)
しかし“消す”というのは、一体どういう意味なのか。どこかに追いやる? 誰かに預けるのか、若しくは捨てる、ということか。それとも――考えるだけで、背中に冷たい汗が流れる。
「あいつは、いつになったらやるんだ!」
日が経つにつれ、母の言葉は苛立ちと怒気を帯びていった。
「私が本気で喋れば、あいつなんか一発で終わりなのに。もっと強く教えなきゃ駄目みたいだわ……」
(あいつって誰?)
母はこのところよくその言葉を口にした。それは誰かに何かを頼んだということなのか。依智伽には分からなかった。母に協力するような「あいつ」がいるのか。いや、その「あいつ」は何もしてないのだ。だから母は苛立っている。ただ、母の中に渦巻いている何かが、着実に危険な形を取り始めていることだけは感じていた。
これから何が起こるんだろう。母は何をする気だろう。でも母が何を企んでいようと、依智伽にそれを止める術はない。でも、このまま消されるのは嫌だ。そう思っていたのに。
依智伽が小学四年生になった一学期の終わりが近づいたある日、母は死んだ。否、殺された。
この世から消されたのは、母だった――。
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