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深層の滓(しんそうのおり)  作者: 麗 未生(うるう みお)
第二章 遠因(えんいん)
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遠因1-2-⑧:万智の家の実態

「遅くなってもお母さん、心配しないの?」


そう問う、万智の表情が暗い影に包まれてはっきりと見えない。でも依智伽は頷いた。


「私のお母さんは……心配なんか、しない。私なんか、どうでもいいの」


何故か、そう答えてしまった。今まで誰にも言ったことがないはずなのに。目の前の万智が、いつもの万智とどこか違う気がしたからかもしれない。なんだろう、どこか同じ”匂い"がしたような気がした。


「へえ~、そうなんだ」


依智伽の返答に万智は、安心したような笑みを浮かべる。


「腹、立たないの?」

「私も、お母さんなんかどうでもいいから」

「ふーん。どうでもいいか、そっか、そういうことか。……あんたって、やっぱり不幸なんだね。良かった」


そう言い捨てるように万智は去っていった。依智伽はその背中を見送ってから、静かに歩き出した。

翌朝、学校に着くと教師たちが慌ただしく動き回っていた。空気が明らかにいつもと違っていた。一時間目は自習になり、万智は学校に来なかった。そしてその日から、彼女は姿を見せなくなった。数日後、担任教師が淡々と告げた。


「有田万智さんは、転校されました」


特別な説明は何もなかったが、教室には不自然な静けさが漂っていた。依智伽の母は依智伽にも学校にも無関心だったから、何も耳に入って来なかったが、教師や親たちの間で何かがひそひそと囁かれているのは感じ取った。保護者を集めての緊急総会とかが開かれていたというのも同級生達が話していた。でも内その時はまだ誰にもその内容を知らされてはいなかった。


 ただ、あの別れ際に見せた万智の笑顔が、依智伽の心から離れなかった。あの時の万智の表情は、今までで一番、穏やかで、なぜか、すっきりしていた。あの笑顔が妙に心に残った。


 しばらくして、生徒たちの間にある噂が流れ始めた。どんなに緘口令を引いても、人の口に戸は建てられないということだろう。


——万智が、母親を切りつけた。


 夜中に救急車が来て、母親が運ばれていくのを近所の人が見たという。そして、噂はさらなる事実を伴って広がっていく。


 万智は、長年にわたり母親、否、家族から虐待を受けていた。姉ばかりが愛され、新しい服も買ってもらえず、万智の服はいつも姉の古着だった。父親もその事には何も言わず、しばしば手を上げる母親にも見て見ぬ振りであった。父親にとっても可愛いのは姉娘だけだったのだ。


 事件が起こった後、万智を保護した医師は万智の身体から無数の傷跡や痣を見付けたとの事だった。万智に対する暴行は日常茶飯事的に行われていたようだ。ただ、世間体を重んじる彼らは学校や近所の人にはその事を隠し続けた。仲の良い家族、優しい親を演じていた。学校の健康診断の日は決まって休まされ、家庭の真実は巧妙に隠されていた。


 万智も誰にも言わなかった。万智がいつも言っていた優しいお母さんは虚像に過ぎなかった。でもそうやって嘘を重ねる事で、万智はかろうじて自分を保っていた。何もかも嘘の中で生きていた。学校でそう言っている母が本当の母なのだと想像する事で、理想の家族の中にいるつもりになっていたのだ。


 でも、ついに万智は限界を超えたのだ。事件のあった日は、姉の誕生日だった。家族は姉の誕生日祝いで、レストランに食事に行くと言っていた。当然のように、そこに万智は含まれない。惨めに置いて行かれるのを味わいたくなくて、家に帰らず万智はあの神社の石段で時間が過ぎるのを待っていたのだ。


 みんながいなくなってから、帰った方がマシだ。案の定、家に帰ると鍵がかかっていて、誰もいなかった。万智はいつも持っている鍵で家の中に入ろうとしたが、本当に鍵がなかった。依智伽に鍵をなくしたというのはその場しのぎの嘘だったが、どうやら現実にそうなってしまったようだ。


 これでまた母に怒られる、瞬間的にそう思い、殴られる自分を想像して足がガクガク震えた。それでも行き場のない万智は家の玄関前に立って家族が帰って来るのを待ち続けた。夜になって帰宅した家族は、そこで待っていた万智に、誰も声をかけなかった。まるで存在しないかのように、目にもくれず鍵を開けて中に入って行く。ただ入る時、母がジロッと万智を睨んだ。

お読みいただきありがとうございます。

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