遠因1-2-②:母の機嫌に左右される日々
依智伽は、元々服を多く持っていなかった。母が与えたのは、どこかのバザーで買った数着のみ。新しい服など買ってもらった記憶はまるでない。でも、小学校へ上がる時、舞奈が「お古だけど」と言って、たくさんの可愛い服をくれた。舞奈の母はセンスが良かったようで、どれも素敵な服だった。
おかげでそれまでは洋服のことをボロいとか、汚いとか言われて周りの子に馬鹿にされたが、小学校に入ってからはそれも少なくなった。舞奈は依智伽がいつも同じ服を着ていたのを見て、きっと同情してくれたのだろう。もらうとき、太の家ではニコニコしていた母は、家に帰るとその服を一瞥して放り投げた。
「希美の買った服なんてありがたくもないけど、タダならまあ、もらっておいてもいいわね」
捨てられるのではと不安だった依智伽は、その一言に心底ホッとした。浩太の家に行くときだけ、母はとても優しい。ご飯も作ってくれる。けれど、それはあまり美味しくなかった。浩太の家族たちも、無理に笑って食べているように見えた。
それでも依智伽にとっては、特別な時間だった。母が怒鳴らない、ただそれだけで、心が安らぐ。母は頻繁に訪れているようだが、依智伽をいつも一緒に連れて行ってくれるわけではなかった。それでも依智伽は、次はいつ行くのだろうと、心待ちにしていた
でも小学校へ上がってからは、母が浩太たちの家へ連れて行ってくれる回数が格段に減った。母が殆ど1人で行っている。
「もう小学生なんだから、一人で留守番くらいできるでしょう」
母はそう言う。「もう小学生なんだから」、小学校へ行ってからまるで呪文のように、毎日のように聞かされる言葉だ。
本当は、一緒に行きたい。連れて行ってほしい。けれど、そんなことを口にすれば、母の機嫌がとても悪くなることを依智伽は知っている。だから言わない。ただ黙ってうなずいていた。
あのカップ麺をひっくり返した日からから、ひと月ほどが過ぎた。母は、最近浩太たちの家に行っていないようだった。以前は週に何度も嬉しそうに行っていたのに。例え連れて行ってくれなくても浩太達の家から帰って来た時は母のご機嫌が良いので、依智伽は母が仕事で遅くなるより浩太達の家に行って遅く帰ってくる時の方が断然良かった。
「お母さん、今度はいつ浩太お兄ちゃんの家に行くの?」
依智伽が尋ねると、母はギロッと睨んだ。
「うるさいわね。あんたには関係ないでしょ!」
瞬間、地雷を踏んだと依智伽は悟った。母は突然怒り出すことが度々あった。
「ほんとに忌々しい……あのクソじじいのせいよ」
そう呟きながら、母は爪を噛む。
「智樹さんも帰ってきたらって言ったくせに、いざ戻ったら手のひら返して……。あのじいさん、何か言ったのかもね」
――じいさん。きっと浩太と舞奈の祖父のことだ。
依智伽も、彼に二度ほど会ったことがある。最近、どこからか戻ってきて、浩太たちと暮らし始めたのだという。依智伽の印象では、穏やかで優しそうな人だった。
「いっそのこと、あのじいさんも消してしまおうかしら。そうすれば、全部丸く収まるかもしれない……」
母は何かを考えるように、ぶつぶつと呟き続ける。
「でも……違うのかも。あの小憎たらしい子供たち?そう、希美の子供。私があんなに良くしてやったのに、まったく懐かないし」
母の声に、殺気のような冷たさが宿っていた。
「どこかで事故にでも遭えばいいのに……。智樹さんは、本当は私と一緒になりたいはずなのよ。親の幸せを邪魔するなんて、なんて親不孝な子供たちなのかしら。ま、根性の悪いところは、希美にそっくりだけどね」
依智伽は、浩太も舞奈も大好きだ。二人はいつも優しくて、笑顔が温かい。けれど、母が二人をあまり好んでいないことは、何となく分かっていた。母が浩太の父にベタベタと甘える姿を浩太と舞奈はとても嫌そうに見ていた。でも母はそんな事には無頓着だった。
依智伽は黙って見ていた。母の機嫌さえ良ければ、理由なんて何でも良かった。けれどもしかしたら、もう浩太の家にはいけないのかもしれない。そう思うと絶望的な気分になった。母と二人の生活の中で、浩太の家に行った時だけが、普通の家庭にいるような気分になれる唯一の時間だったのだから。浩太の家に行かなくなってから、母はずっと機嫌が悪い。いつ怒鳴り出すか、いつ外に放り出されるか分からない。
心許なげな目で母を見たその時、母がいきなり依智伽の方を振り向き、目を吊り上げた。
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