錯綜3-3-⑧:和と和解
「私、無神経だったみたい。浩太や朝陽にも、そう言われた」
その言葉に和の表情がわずかに動く。
「上條くんたちに何か言ったの?」
「和とケンカしたって」
「ケンカって……」
「でも上條くん、びっくりしてた。和が手を上げることがあるなんて、って」
「そんなことまで言ったの?」
和は小さくため息をついた。
「あ、でもちゃんと言ったよ。私もやり返したって。和が一方的に叩いたわけじゃないって」
「そういう問題じゃ……」
「でも和のイメージ、壊れちゃったかな?」
「イメージって何?」
「冷静沈着で、優等生って感じ?」
「そんなの、どうでもいいわ」
「どうでもいいの?」
寧々の驚きに、和は視線を窓の外へ戻す。
「人のイメージなんて、いい加減なものよ。私だって……」
「私だって、何?」
「あなたのこと、ただの能天気で、何も考えてない人だと思ってた」
「……なんだか酷い」
寧々は少し不貞腐れた表情を見せた。
「でも、この間『私にもいろいろある』って言ってたでしょう?」
「あれは、その場の勢いというか、売り言葉に買い言葉って言うか……つい」
「それでも。人に無神経だなんて言って、自分も同じこと言ってたなって思った。それに……手を上げたりして」
「それはいいの、私も思いっきりやり返したから。お互い様ってことで」
「……悪かったわ」
「じゃあ、仲直り、ってことでいいよね」
「仲直りって……別に……」
「ああ、よかった~」
寧々は大袈裟に胸を撫で下ろす。その姿に和は小さく笑って話を続けた。
「私ね、正直言うと、自分でも驚いてたの」
「驚いたって?」
「今まで、あんなふうになったことなかったから」
「それは私も。人を叩いたのなんて初めてだったし」
「私もよ。あんな感情のままに手をあげるなんて、恥ずかしい……」
「感情の抑え方って人それぞれなんだろうね。和と私は、きっと正反対なのよ」
その言葉に、和は少しだけ不思議そうな顔を向ける。
「感情……抑えてるの?」
「あ……いや、そういうわけじゃないけど。誰だって、我慢とかするじゃない? 私はまあ、あんまりないけどね」
じっと寧々の顔を見つめる和。その瞳には何かを見透かすような冷静さがあったが、特に反論はしてこなかった。
「……そうでしょうね」
もしかして和は、寧々の背後にある何かを感じ取っているのかもしれない。でも、何も聞いてこないのは、和自身にも誰にも触れてほしくない秘密があるから。それはきっと、あの山下岳のことだと、寧々は確信していた。
もし和に、山下岳のことを直接聞いたら、寧々はどんな反応を見せるだろうか。
怯えるのか、無視を決め込むのか。それとも、あの日のように怒りをあらわにするのか。本当は、聞きたくて仕方がない。
短い期間とはいえ、和はあの男、山下と共に暮らしていたのだ。彼から何か、断片的でも話を聞いていないとも限らない。勿論、自らの凶行をあっさり口にするような男ではないだろう。だが、全く無関係に見える何気ない言葉の中に、寧々にとっては重要な“繋がり”を見つけられるかもしれない。当事者ではない和が見逃していたとしても、寧々の視点でなら、何かを掘り起こせる可能性はゼロではない。
だがそれを和の口から引き出すのは、容易なことではない。それにはもっと、和の心の中に踏み込まなければならない。しかし、それが難しい。寧々が自分に起こった“あの惨劇”を語れば、和も心を開くかもしれない。だが、今の寧々にはそれがどうしてもできない。
あの事件のことを言葉にするのは、あまりにも苦しい。今でも瞼の裏にはっきりと焼き付いている。母と妹の、無残な姿。それを口にした瞬間、その映像はより鮮明に、色濃く浮かび上がってくるのだ。すると、呼吸さえままならなくなる。胸を掴まれるような息苦しさに襲われて、動けなくなってしまう。
次の日曜日。寧々は一ヵ月ぶりに、祖母のいる施設を訪ねた。だいたい月に一度の頻度で通っている。都心から電車で一時間ほどの静かな住宅街の中に、その介護施設はある。
「おばあちゃん」
個室をノックして入ると、祖母はにこやかに笑って迎えてくれた。
「あら、朱音」
「え?やだ、おばあちゃん。私、寧――」
言いかけた言葉を、寧々は飲み込んだ。
「今日は寧々ちゃんと莉子ちゃんは一緒じゃないの?」
祖母の中では、母はまだ生きている。しかも寧々と莉子と母、三人でここを訪れたという記憶まで混在しているようだった。それはきっと、現実ではない――けれど祖母にとっては、今この瞬間こそが「現実」なのだろう。辛い過去を、幸せな記憶で塗り替えることでしか保てない心がある。
母と妹が殺されたあの日から、祖母はずっと「夢であれば」と願い続けてきたのであろう。だから今日は、寧々も“母・朱音”でいようと思った。
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