錯綜3-3-⑥:祖母との再会ーだが……
父に聞けば、何か知っているかもしれない。父は多分、母のお腹にいる子、寧々が自分の子でないと知った上で、母と結婚したように思う。それはつまり、寧々の実の父親が誰かも知っている可能性もあるということだ。しかし、そんな質問は到底できない。
あの時、山下岳の放った言葉など信じたくはなかった。だが、今や自分と父に血縁がないことは、明らかである。認めたくはなくても、現実は変えられない。
日本に帰ってきたとき、寧々は祖母のもとを訪ねた。誰よりも会いたかった人だった。祖父の死後、祖母は家を売って施設に入ったと聞いていた。きっと、一人になって心細くなったのだろう。父も、祖母に会いに行くつもりだったようで、その時ばかりは一緒に訪ねてくれた。父の両親は寧々が生まれる前に既に他界していた。
祖母は、寧々と父の顔を見ると、とても喜んだ。その顔を見たとき、寧々は涙が出そうになった。祖母だけは、紛れもない「血の繋がった家族」なのだ。だが、しばらく話しているうちに、何かがおかしいことに気づいた。
祖母は同じ言葉を何度も繰り返す。部屋に入ったときはちゃんと出迎えてくれたのに、少し経つとまた「会いたかったわ」「よく来てくれたわね」と、まるで今来たばかりのように口にする。
寧々が父の顔を見ると、彼は少し悲しげな笑顔で、そっと頷いた。どうやら祖母の今の状態のことはすでに知っていたようだ。認知症の初期症状であった。祖母に会ったら、いろんなことを聞こうと思っていたのに。祖母なら“あの真実”を知っているかもしれない、そう思っていた。
事件の後、しばらくの間、寧々は祖父母の家に預けられていた。そのときの会話の中で、祖母がふと漏らした言葉を寧々は今も記憶している。
「何も気づいてやれなかった」
あの時は意味など考える由もなかった。事件の直後、七歳だった寧々にはその言葉の重みを受け止めるだけの知識も感受性もなかった。でも成長と共に、あれは、母の妊娠のことを言っていたのではないか、と思うようになった。
まだ高校生だった娘が妊娠していた事に気づいてやれなかった、そういうことだと。だが、自分が父の子ではなく分かってからは、もっと別の考えも産まれた。祖母が父に引き取られることを反対していた理由。祖母はその時、母のお腹にいた子が父の子ではない、母に何があったかを、気づいてやれなかった、そう言っていたのかもしれない、と。
何度も手紙でそのことを尋ねようかと思いながら、結局一度も書くことはできなかった。祖母とのやり取りは年に数回あったが、いつもお互いの近況方向で埋まっていた。ただ、ここ一年ほど、手紙を出せばいつもすぐに来ていた祖母からの返事が遅くなってきているようには感じていた。そして帰国する二ヶ月前に出した手紙には返事も来なかった。その手紙には帰国することになった旨を書き入れたから、もうすぐ会えるので、返事が来ないのかなと思っていたのだ。
きっと祖母の認知症はもう始めっていたのだろう、寧々は帰国後、何度か祖母を訪ねていたが、その度に彼女の症状は少しずつ、しかし確実に進行しているように見えた。それでもときにはまるで正常なこともあり、あまりに受け答えがしっかりしていると、「これはボケたふりをしているのでは」と錯覚するほどだった。
そんな中で、寧々は恐る恐る尋ねた。
「ねえ、おばあちゃん。私がお母さんのお腹にいたときのこと、覚えてる?」
「そりゃ、もちろん覚えてるわよ」
「お母さん、どんな感じだった?」
「うーん、どうだったかしらねえ……」
そう言って祖母は一生懸命考えこむ。
「よく……泣いていたわ」
「泣いてた? どうして?」
寧々がそう訊くと、今度は祖母は不思議そうな顔をして小さく首を傾げる。
「あなたは本当に可愛い赤ちゃんだったわ」
そうしてまた話は逸れていく。また、ある時、祖母の調子が良い時に尋ねる。
「私、お母さんにもお父さんにも、あまり似てないの。莉子はお母さんそっくりだったけど、私は誰に似たのかな?」
そう尋ねると祖母は少し顔を顰めた。
「あなたは……きっとおじいちゃんに似たのよ」
「じゃあ、どうしてお父さんには似ていないの?」
「だって、あなたは――」
祖母はそこで言葉を止めた。
「私は、何?」
「あなたは……そうそう、とても可愛い赤ちゃんだったわ」
また同じ言葉に戻る。本当は、何もかもわかっているのに、祖母は“わからないふり”をしている。そんな風に勘繰ってしまう分がいる。でも祖母が認知症であるなら逆に、それまで”行ってはいけない“と思っていた言葉も口を滑らすのではないか、とも思ってしまう、それでも、「話してはいけないこと」という意識が祖母の心の奥深くに眠っていて、それが彼女の言葉に“鍵”をかけているのだろうか。どんな状況化の下でも、口にしてはいけない禁句、として。そう思うと、人の脳とは不思議だ。
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