狐の悪夢
気怠い夏が過ぎ、秋が来た。夜は虫の音が聞こえ、朝方には涼しい風が吹く。日差しも柔らかく空は青い、素晴らしき旅の季節。
さぁ、今週末は何処へ行こうかと考えていた時、悪夢はやって来た。
「ボンジュール!」
秋の夜長を物ともしない高い声が谺を伴って私に届く。
「げっ……」
私は身震いする体を抱きながら声のした方をゆっくり見た。
くる……なんか、光ったものが、手を大きく振って……
私は咄嗟に窓を閉めたがそんな物が奴に聞かないことなど百も承知だ。
「さ~~ゆ~~~!」
アパートの割にはけっこう分厚い壁を物ともせず奴は入ってきた。
「久し振りだね沙夢。会いに来たよ」
奴こと薔薇魔人は華麗にターンを決めお約束の薔薇の花束を差し出した。何時もなら怒声で答える所だが何分今は夜だ……声を荒げてしまっては迷惑だろう。
「帰れ」
私は優しく笑った。多少頬が引きつったのは見逃す。
「沙夢……」
薔薇魔人が伏し目がちに呟いた。
お、効果があった。私は心の中でニヤリと笑う。
「そんなに僕のことを……」
そう、嫌いなの!
「大好きだったなんて!」
……はぃ?
「いつもいつも怒ってばっかりだったから僕のこと嫌いなのかと思っていたよ!」
「あ……自覚はあったんだ。全くその通りなんだけど」
私はホッと胸を撫で下ろす。さすがにそこまでバカではなかったようだ。
「でも! 今日は僕に笑っておかえりと! 僕はこの耳で聞いたよ!」
薔薇魔人は大袈裟に天を仰いだ。
「いつ私がそんなことを言った。勝手に……自分の中で書き換えるな!」
しかし私の必死の苦情はこの男には通じなかった。
「沙夢」
「何?」
反射的に返事をしてから後悔した。
「今週の土曜日、10月4日は何の日か分かるかい?」
薔薇魔人は器用にウインクをした。
うげ、気持ち悪……
「知らない」
「おや、それは意外。僕のことは全部知っていると思ったのに」
薔薇魔人は心の底から意外そうな顔をした。そこがまた癪にさわる。
「私はどこぞのストーカーか」
「何を隠そう10月4日は僕の誕生日なのさ!」
私の言葉を無視して薔薇魔人は高らかにそう言った。
だからなんだ……
「そこで恥ずかしがり屋の君は僕へのプレゼントは用意出来ないだろうと思いこれを進言する」
「おい……誰が恥ずかしがり屋だと?」
怒りがふつふつと込み上げて来た。なぜこの男はここまで自分に都合よく考えられる。
「プレゼントの変わりに僕を稲荷大社へ連れて行けばいい!」
我慢にも限界が来た。
「一度そのめでたい頭を直してこい!!」
最大級の怒号ど共にに振り上げられた足は見事に薔薇魔人を捕らえ、奴を私の視界から消した。
ふぅ。これでしばらくは静かな夜を……
「あーはっはっはー沙夢~」
私はその声に目まいを覚えた。 消えたのは束の間、奴は直ぐに戻って来たのだ。
「沙夢、照れることはない。大丈夫だ!」
私は奴のあまりにも的外れな言葉に不覚にも膝をついてしまった。
「おや、力が抜けるほど驚いたのかい? 僕が君のことが分かるのは当たり前のことじゃないか! それはそうとさっきのはなかなかの蹴りだった。2階を突き抜けて屋根まで飛んでしまったよ」
どうしてこいつは自分にここまで自信が持てるのだろう……ははっ。もういや……
「というわけで、いいね! 沙夢」
何がというわけでなのかは知らないがもう反論するのも面倒だった。
「……好きにしろ」
結局私の気力負けだ。
「それじゃ、僕はこれで帰るよ」
奴は来た時と同様に高笑いと共に去って行った。私は奴が去った静かな部屋で稲荷山の方を向きひがんだ笑みを浮かべた。こうなったら神に頼むしかない……。
そして週末。
私は煩いフランス人を連れて稲荷大社へ行くこととなった。
「わぁぉ…」
本宮正面にたった奴はそう感嘆を漏らした。
「素晴らしいでしょ」
「君と同じくらい美しいよ沙夢」
聞こえない聞こえない……
「さぁ、登るよ」
永遠と続くかのように思える鳥居道、私は景色を楽しみながら歩いた。視界のはしに映る奴と音を無視して。
「すんばらしぃ! 沙夢この永遠と続くアーチ、君と僕との愛の道だと思わないかい?」
貴様と歩く地獄道だ。
「あぁ、これは何処へと行き着くのだろう。美しい愛の道、そうたどり着くのは僕たちの愛の巣」
たどり着くのは地獄……。頂上から突き落としてやろうか。
「……沙夢。僕はひらめいた、人生最大のひらめきだよ」
奴がしつこく私の視界に入ってくるので私は目で続きを促した。私が相手にするまで騒がれたらたまらない。ただでさえこいつは目立つのだ。
「ここは神社。つまり日本式の教会さ」
嫌な予感がする。
「今日、僕たちはここで式を挙げよう!」
「誰が挙げるか! お前もっと自分の立場をわきまえろ!」
少し道が開け、平坦になったところで振り返った。
「もしかして君の親は国際結婚を許してくれないのかい? それなら今からでも君の両親に伺いに」
「それ以前の問題だ! そもそも私たちは付き合ってなどいない! そもそも私たちに親なんてものはいないだろ!」
座敷童子はある時ポッと生まれるものなのだ。
奴が小さく舌打ちをした。
こいつ、確信犯か!
「しかし、思い立ったが吉日というではないか」
私たちは先程よりは少し早足で再び歩き出す。
「そういう、人生の決定はもっと慎重にやってほしいんだけど」
「善は急げとも言うしね」
そういや人の話を聞かないのはこいつの特性だった。
「善なんかじゃなくて悪なんだけど。それと急がば回れっ言葉知ってる?」
「知らないね」
こいつ、都合のいい言葉しかしらないんじゃ……。
苛立ちを募らせながら階段を上がって行く。今回は人の形を取って、地面を歩いている。
これは奴へのささやかないやがらせでもあったのだが……。
「沙夢~早くおいでよ! まだ先は長いよ~」
山の中腹辺りでバテているのは私。薔薇魔は10メートルほど先でピンピンしている。
人の姿で参らせればバテて懲りるだろうと踏んでいたが甘かった。
奴は座敷童子一倍の体力を持っていたのだ。
「しんどいなら僕が背負ってあげるよ~」
悔しさと怒りを糧に階段を上る。必ず上までいってこいつの抹殺を神に祈ってやる。
やっとのことで鳥居群を抜けると、重軽石がある場所だった。
「なんだい? この石は」
「持ってみて軽いと感じれば願いが叶う、らしい」
薔薇魔はなるほど、と納得し、それを片手でひょいと持ち上げた。
これには私も驚いた。
いくら座敷童子とはいえ人の姿の時は人並みの身体能力しかなく、座敷童子の時は腕力などとは無縁なのだ。
「はっはっは! どうだ沙夢、軽いものだな! これで沙夢と結婚するという僕の夢が……」
「叶うか!」
私は奴の手に手刀を落とした。石がそのはずみで落ち、元の台座に戻る。
「はぁ……」
薔薇魔は手をさすりながら大仰な溜息をついて、こうのたまった。
「ツンデレを目指しているのかい?」
血管が2本千切れた。
「誰が目指すか~!」
本来ならここでアッパーの一つでも決めてやりたいがいかんせん、ここは公衆の面前。そういうのは帰ってからのお楽しみだ。
「まぁまぁ、沙夢も持ってみなよ」
なぜお前に宥められなければならないのか。
私は納得がいかなかったが、その石を持ち上げてみた。
重っ……
こいつはこれを片手で持ち上げたのか?
「沙夢。君の夢は叶いそうかい?」
「……無理、だな」
夢などもともとないが……しいて言えば隣りの奴が消えて欲しい。
「そう気を落とすな。君の夢は僕が叶えてあげるよ!」
「じゃあ消えて」
私は極力笑顔で言った。
「それは無理。さ、行こう」
薔薇魔はさらりと受け流すとさらに上へと進んで行った。
私たちが不毛な言い合いをしながら階段を上がっていると上から神主さんが下りて来た。
片手に箒を持っている。どうやら上の掃除をしてきたらしい。
まずい……私たちも掃除されたりしないよね。
神主さんと目が合った瞬間、彼は声をかけてきた。
「お二方」
……ばれた?
「たまにはこういうところへデートに来るのもいいでしょう?」
神主はにこにこと頷いている。
なんか後ろに花が見える。それも幼稚園児が書くような花だ。
「今はグローバルな時代ですからねぇ。美男美女、お子様が楽しみですね」
……この神主、祟ってやろうか。
心配とは真逆の言葉が突き刺さる。
「はい! そうなんです! 僕たち婚約して、ここの神社で祝言をあげようかと!」
精神的ダメージの二乗。
「調子に乗るな! ここは商売繁盛の神社だろ!」
怒りのあまり否定する場所を間違えた。痛恨のミス!
「大丈夫。神は等しく平等さ」
「誰がお前なんかと結婚するか!」
「いやぁ、仲のよい。何か困ったことがあったらまたおいでなさい」
おいちょっと待て。
なんだその春だね顔は…そんな微笑ましい顔するな!
では、と神主は言いおいて降りて行った。
「さぁ沙夢。神主さんから祝福ももらったことだし、この上の社で神様に結婚の報告をしよう」
薔薇魔は私の手を掴むと早足で上っていく。
ぎゃぁぁ! 触れられた!
「離せ! つまずく!」
「大丈夫。僕が抱き抱えてあげる」
それは絶対いやだ!
私は意地で上りきった。息の上がったままお賽銭をいれ、鈴を鳴らして懇願する。
お願いします。お願いします。お願いしますからこの薔薇魔を、この諸悪の根源をどうにかしてください。神様の元へ連れて行ってください!
そう心の中でまくし立てるとすっきりした。
ふぅと息をついて目を開けると、目の前に狐がいた。
白い、美しい狐だ。
よ、妖孤?
「おや、神様の使いかな?」
『座敷童子の娘』
突如私の頭に声が響いた。どうやら薔薇魔には聞こえていないらしい。
『頑張れ』
それだけ告げると妖孤は忽然と姿を消した。
「神様も僕たちを祝福してくれたのかな!」
隣りでは馬鹿がはしゃいでいる。
え……神様、それだけですか?
私にどうしろと?
私はとぼとぼと山を下りた。
どうやらこいつは神様でさえ手をあげてしまう魔人らしい。
それともキリスト圏の座敷童子に多神教の神は関わってはいけないのだろうか……。
そして私は家に着くなり布団へ倒れこんだ。
寝よう。
そして忘れよう……。
そして翌朝、私は薔薇の香りで目覚めることとなる……。