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らくだのケツの穴から覗く夜

作者: 西崎 静

 気が付けば、売人でいた__。


死よりも、少しばかし恐ろしく思える、それ。ひどく、味の占めた咀嚼が、おれのたった一つばかしの運命とやらを。こそばゆくなる、時偶に、懐かしさがあるから。

 気が付けば、赤の他人へ、薬を売っている。

惰性で受けた、あのカフカの講義を思い浮かべて。その度に、心の奥底から、微かに聞こえてくるようでいる。最前列、名を呼ばれて、目が合い、指差され、カフカが目玉をぎょろりと。大きな、大勢いる、多くの人々、その講義室の明かりが、痛い。


 「変身してしまった、彼は一体どこへ?」


 並々注いだ、文字の羅列。

きっとそれは応えから程遠いもの。口から、ぽろりと零れてしまって。恥ずかしさがあると、それでも出てしまう言葉は、確かに惰性の先に居る。


__気が付けば、おれは売人だった。




 いつのまにやら、警部補といた。


砂漠にやって来た、薄らいだ意識。そんなところを彷徨いながら、捕まりたくない衝動があった。逃げ出した、講義室。辿り着いたものは、薬を売りさばく日常だけ。果ては、渇き切った喉が鳴る。ああ、水はどこだろうか。

 すべて放り投げたおれに、残りカスがあるならば、それは薬と。ぱちぱちと弾けて、鳴り止まない悲鳴が頭痛。痛い、ひどく頭を揺らされて、それで手持ちがたくさん。あれはどこから手に入れたのだろう、髪の毛を数える。そうすれば、さばいた、薬が腕の中。血流巡って、ドアが叩かれた。そう、いつだって警部補が扉の前に立っている。なぜと、言う。

 問いかけに、誰も応えてはくれない。

 「ここまで、逃げて来たんだな」

 「律儀に追いかけるんだな、あんたは」

 「もう、どこにも行けやしないだろうに」

 「わからないさ、ずっと前から、こんなもんだった」

 皺が目立つ、中年。

それだけでも貫禄があるというのは、些か。そう、些か贅沢なものだと。右側だけ見る、そうして、警部補はシャツの腕を捲っていた。

 砂漠は、寒さがあった。

深い、霧雨のような涙が出てしまう。追いかけられた筈の足は、ぶるぶると震え。やがては、警部補もその足どりを止めてしまうもんだから。くすぶり続ける、その高鳴り。

 一つ向こうで、確かに、ごめんと耳にした。

 「もう、夜が訪れる」

 「おれには関係ない、ただ歩いていかなきゃならない」

「なぜ、そこまで歩くんだ。ああ、街に誰かしら居るとでも?」

 「えらく嫌なことを言うんだな、珍しいよ」

 「珍しく思われるほど、おまえと長くはいないだろう」

 「そうだな、しんどさがあるだけだ」

 「そうか……ときより、ほんの前触れに、おまえがいやらしい男に思える」

 砂を蹴った。

さっと鳴って、やわい風だけが耳の後ろを通る。さらさらと落ちて、指の隙間には残らないまま。ああ、足の先をじっくりと眺めたことはあっただろうか。そんな、与太を抱えて、一枚ずつ、汗が剥がれ落ちてゆく。

 

 気が付けば、らくだが座り込んでいた。


 「やぁそこの迷い人たち、僕というらくだに煙草をくれやしないか。ああ、キャメルならいいんだ。キャメルと言えば、味わいは豊かだろう。安いんだ、とても。とても、貪り食う餌よりも、遥かに安い。同じ植物だというのに、その差は何なんのさ。そういうことだ、僕に煙草をくれちまえよ」 

 よく喋るらくだ、だった。

あちらこちらと彷徨う、砂漠の道中。もう自身の尿でも飲もうかとした、一瞬に。らくだは、揚々とやって来て、煙草強請る。その様が粋で、だが滑稽でもあって。

 警部補は苦虫噛み潰して、耐えていた。

なんせ、らくだは口をきける筈がない。

「そのこぶのもん、取ってしまおうか。らくだは、そいつに水を蓄えているらしい。ではないと、たった今、俺は」

「気が触れちまいましたか、にんげん様。驚いた、どうにもちゃんちゃらした男といる割には、そう、あなたは善人のようで」

 「まて、おれは悪人か。らくだのクソ野郎」

「は、らくだにバレるような品性じゃ、碌でもないだろうに」

 「あんた、酷いぜ。ほんと、ひどい」

 なぜだか、どうにも慌ててしまう心持がある。砂玉の大海原にて、今日も今日とて、俺は誰かしらに罵られる運命とやらを。ああ、俺を殴る神はどちらさまのどの口調をしているやら。

 警部補が垂らした、前髪。

まだ、白髪が伺えない、たった数本の若さ。その勢いに押されぎみ、はてさてらくだは喋るもの。

「まぁ、らくだのこぶから水なんてもん、よろしくはない。あんた、そんなもん飲みたいのか」

「いいや、売人。飲みたくないが、このままじゃ、街にすら、たどり着けない」

 すると、前のほうで、らくだが振り返る。ざばっと蹴上げた砂、薄らいで寒さある、日差しに。凍てつくような痛みが、燦々とする中から、照らされて。

 滲む、滲む、そのらくだの、真っ黒な目玉。

ぞっとした、らくだのこぶを取る、取らないの話すら。なんのこと、損なていで。それが、振り返れば、目玉は深淵へと疼く。

「なぜ、そこまで歩くよ、あんたは……ああ、街に誰かしらが居るとでも?」

 ふと、嫌味が出た。

らくだがにやっと、口角を上げながら、じろり。じろり、ぺちゃり、長い舌がちらり。

 妙な、とんでもなく妙な既視感があった。

「むかし、僕も似たようなことがあっちまってね。迷い人たち、それよりも遠いむかしに」

 語り始めた、らくだ。

警部補は頭を抱えながら、くらり。だけれども、到底肩を貸す気にすらなれず。馴れ合い、こんな砂漠の中、滑稽に。幾度となく、たしなめることも出来たろうに。おれは、ただ、警部補のその、執念とやらと相性が悪く。

 うらめしさから、逃げちまいたいと。

 「なんでも、でかい虫に成っちまった、哀れな“人間”がいたのさ。ああ、あいつ真面目なわりには、面白い奴で。そんで、良い奴でもあって。僕は、とても気に入っていたんだよ。でも、世の中とやらは酷い仕打ちを平気でするもんだから。いやはや、煙草もくれなやしないのか、世間様は」

 むかし、カフカの講義室で聞いたような話だった。真面目で身を粉にして働いていた、男がひとり。朝目覚めれば、毒虫になってしまって。そして、やがては己が身を見捨ててしまう、哀れな人間の話。カフカの講義室で、問われたことは、今もなお、頭から。

 そう、頭からイカレてしまいそうだった。怒れて、聞かれて、しなだれて。薬指から腐りかけた、理念があった。

 気が付けば、おれは砂漠にいる。

死よりも、少しばかし恐ろしく思える、それ。ひどく、味の占めた咀嚼が、おれのたった一つばかしの運命とやらを。こそばゆくなる、時偶に、懐かしさがあるから。


 隠し持った、キャメルの煙草が嘆いていた。


 「こいつをやったら、あんたは街まで連れて行ってくれるのか」


 らくだの真っ黒な目玉が、きらきら。

放った言葉に、尻尾を揺らしながら。砂に沈みかけている、この哀れなふたりを見つめている。火がない、ライターはどこだ。そんな小さな思考だけ、浮ついて。あれよと、らくだの毛並みが砂を払う。ぼろぼろと、はらはらと、気が付けば、爪の間にまで砂に。

 砂に、漬かっていた。


 「並々注がれた、文字の羅列というやつは、時として知となり、救われるのさ。そう、主に卑怯な自分とやらを」


 説教がましく、そんなこと言う。

その割には、煙草を吸いたいと口を曲げて。カフカの講義室、あの教授はおれに何を問おうとしていたのか。いまだに、応えが分からずとも、ずっと恐ろしい。

 「火、いるだろ」

 待ち構えていたと、そんな素振りを見せていた。警部補が、あれよとライター翳し。らくだ口曲げながら、先の方で吹かす。もわっと、煙が砂漠を流れながら。そいつは、確かな道しるべのように、くねくねと。実に自由に砂漠を泳ぐものだから、少しばかし。

 胸を締め付けられて、どくっと波打つ芯の鼓動。気持ちが良いぐらいに、厚かましい考えが。ああ、浅ましい、おれ。なんて、可哀想なんだろう。

 「持っていること、言わなかったな」

 「責める必要はないだろ、もう渡した」

 「彷徨っている時にすら、そいつを見せたか、俺に」

 「いいや、見せなかった」

 「だから、おまえはそういう男なんだ。そういう人間なんだ」

「にんげん、か……なぁあんた、らくだよ、その哀れな毒虫は、どうなった?」

「ほら、聞いちゃいない。おまえのそれが、“彼をどこへ”と言わすんだ」

 よくわからない、だけれども。

ゆらりと、火が消えて、終い。腐りかけた薬指から、理念が叫び出しそうになっている。ほどよく、逃げ出したい衝動。なにか詰まった感触、それが爪の間に。砂だ、ずっと砂の大海原に沈められている。泳げない、息も出来やしない。なんせ、翼も、尾ひれもない。

 らくだが、実にはやく足を蹴上げる。

 「毒虫ねぇ、毒虫。僕の知り合いじゃないよ、そいつは。でかい虫さ、大きな、それはもうでかい虫さ。なのに、あれはない、あれは。あんなところで、あんな風になるべきじゃなかった」

 「なら、どうなったんだ。どうなったっていうんだ」

 早口に、責めた。

らくだの語りが、まるであの男を毒ではなかったとでも言いたげな。警部補がまた、目玉でもって、抉る。痛い筈の心持ち、それがらくだの語りよりも、よっぽど親切であるなんて。

 そもそも、カフカの講義室は何号室にあったのか。

「あらま、善人のほうのひと。連れが、倒れかけているよ。僕は背中に誰かしらを乗せる趣味はないね」

「らくだの癖に、よく言う」

 「いつだって、当たりが強いよ。ああ、嫌だ、嫌だ」

 警部補とらくだが、旧知のように。


 それこそ、窮地のなかで頭から話すものだから。喉がからからだ、何も飲んじゃいない。あのとき、警部補のこぶを取ろうと言われたこと、大人しく従っておけば。それでも、らくだをどうこうしたいと思えぬ、情けなさ。

 ふわりと、漂う。

芯から食って、じりじりと燃えてゆく、キャメル。そいつも、確かにらくだ。どこもかしこも、砂漠じゃらくだが目立つもの。

 わざとらしく、咳き込む警部補が。

そう、同じ喫煙者だというのに、恥ずかしいと。葉が焼けていく音、微かに耳へ。灰が葉のカスとなって、しおれていく。

 「ほら、捕まれ。薬なんかやっているから、体力がないんだ」

 「おれは、売ってるだけだ。売って」

「それでも、肌で触ってないと言えないだろう。そういうもんなんだ、あれは毒だ」

 それは、いつにもまして、優しい口調だった。砂漠の、まさにらくだ以外いない世界まで、おれを追ってきた、たったひとりの人間。涙が出そうか、いや血尿でも出そうか。

 喉奥から、墓場まで、吐きそうだった。

粉が付く、それは砂と同じ。あの粉たちは、触れても、吸っても、頭からイカレそうになって。測りで見積もって、客に売る。そうなれば、爪の間にはもう満杯に詰められて。

 ああ、そんな目玉で、優しく語り掛けないでくれよ。回された、腕の重みが、痛かった。

 「煙草も毒だ、どいつもこいつも」

 「そんなに言うなら、彼がどうなったのか教えてあげるよ。問いたのは、勝手だけれど。あの哀れな人間はね、でかい虫に成っちまって。ああ、口に出すのも憚れる。彼は、きっと、どこにもいけやしなかったんだ」

 らくだの真っ黒な目玉が、じっと。

もう長いこと、煙草の火がその深淵を掻き消そうとしていた。


 「そう、どこにも行けやしない__」







 あれから、数日か、数時間か。


 とにかく、もう夜が来ると思ってから。寒さに震える、砂漠の道中。煙草を旨そうに吸う、そのらくだがいた。後ろから、おれを背負って、歩く警部補。たどたどしく、長いこと、歩き続けて。おぶられている、その背中から。唐突に、肉が張り裂けんばかりの力み感じて。少し、目を逸らした。

 「夜が、夜が来てしまった」

 呟かれた言葉が、等々沁みてしまっていた。

らくだが、また振り返る。困ったようにしながら、タバコがもう根元まで吸い尽くされて。じりじりと迫る、その火も夜に飲み込まれては。疎らな、星が目玉の水面に落ちて来ていた。

 「夜は、いずれ来るものだよ」

 呆れたように言う、らくだ。

その通りだ、ふらつく頭はそう告げて。砂粒のきめの細かさすら、見れなくなったころ。もう街灯りすらない、砂漠の中で。ひっそりと、息絶える姿を思い浮かべて、励ます。楽になるだろう、長い、長い、寒さに終わりがあるとすらなら。

 ただ、警部補だけが、夜を恐れている。

「気が付けば、夜だけども。そうか、夜が来たら、救われるのはもっと先になるね。大変だ、それは」

「まるで、他人事だ。煙草をやっただろう、なら仕事をすべきだ」

「仕事、対価、なにひとつ正統性もありやしない。ああ、煙草もくれやしないのか、ちゃんと」

「やったものは、やったものだ。夜が来てしまった、街にたどり着かなくなってしまう」

「確かに、やったものはやったものだね。よし、ひとつばかし、並々注がれたものを教えてあげるよ」

 そんなこと、抜かしながら。太々しいさまで、いて。余裕のない、警部補はぶつぶつと言葉を紡ごうとしたとき。

  らくだは、ケツの穴を見せつけてきた__。


 ぎょっとして、思わず警部補の背中から、ごろごろと。むちうちした、脹脛がそこそこに。打撲痕よりも、砂の上をちゃぽんと落ちた一瞬でいた。

 「なにを晒しているんだ、あんた」

 「ケツの穴さ、自慢のね」

 「やめてくれないか、向けてくるのを」

 「ほら、警部補だって言っている」

 「ケツの穴すら自慢なんだ、いいだろうに。それに、これが唯一、街にたどり着くかもしれない手段だよ」

 ふたりして、警部補と顔を見合わせた。

その一方で、らくだは自信たっぷりに口をまた曲げるものだから。煙草欲しさの勢いとやら、そいつは信用に値した。

 気が付けば、喋るらくだを許容している。

いい加減、悴む手先があるものだから。砂漠の凍てつきを甘く見るのは、よくはない。このまま、夜がもっと深く、暗く、恐ろしい、おおきな夜に飲まれるならば。それこそ、波ごとく食われるならば、それはもうらくだの言うことに、首を振るしかない。

 例えば、そうケツの穴が、額にあったとしても。

 「このケツの穴は、どこへでも行けるのさ」


 まゆつばのような話を聞かされている。

それでも、警部補を見上げれば、傾けた耳の具合に、それほどまでにまずいのかと。よくない状況が、深刻さを打って。そういえば、随分と前から、おれを追って苦しそうにしている、なんてこと。家族はいるのだろう、指輪の痕がある。なんだか、とんでもない罪を犯しているような、朝焼けた世界で、また追って来て。それで、煙草投げつけ、逃げ回るおれがいい。こんなところ、寒すぎる、砂漠。喋るらくだ、なにもかも、丸めて。

 じりじりと、焼け吐く先は、芯から。

頭から打ち付ける痛み、言い訳がましい警部補の漏れた、声。どこへも行けやしない、どこへでも行ける、木霊して。

 らくだ、こぶの水は、飲めたのだろうか。

 「おい、売人。先に行け、俺は後ろから行く」

「いいね、ケツの穴のひどさを知るんだ。善人のほうは、聞き分けがいいよ。けして、けして、素直ではないけれど」

 「もう、おまえは限界だ」

 その一言が、欲しくて。

それでいて、寧ろいらないもので。腹から喉先の吐き掛けまで、苛立ちが籠る。なにを思う、こんな扱い慣れたものだろうに。カフカの講義室は、あんなに溢れていたというのに。

ヒノキから、茅葺屋根の雨仕舞まで。建物から、並々注がれた文字の羅列。そいつと、心中して、伝説に成りたかった。

 彼は、一体どこへ。

その問いかけに、今もなお、応えはない。






 気が付けば、らくだのケツの穴の中だった。


 なによりも美しい世界が、広がっていて。零れんばかりの、その星屑の空がまだらに。微かに、水面に浮かぶ音がする。

 端から、きらきらと、粋と活きを得た星たち。煌めき、神々しく、それでいて侘しさのある灯火。喉がなる、渇きが消えて。潤されたのは、らくだのケツの穴の中の光景が、満たされたものだったから。

 「綺麗だ、どこまでも」

 「それは勘違いだ、それは度がし難いほどの思い違いだ」

 振り返れば、警部補がいた。

顰め面に、有体に言えば不機嫌でいて。この不思議な空間を目の前にしても。そう、警部補はとりかえしがつかないほどの後悔をしているように。

 見えてしまう、気のせいでなければ。

 「こいつらは、屑だ。その寄せ集めだ」

 そう言う、その先をじっと見つめる。

星の瞬きの中に、じわっと滲んで出てきた、なにか。むかし、それこそ、なにかわからないほどのむかし。

 あの、カフカの講義室が顔を出して。

おれがいる、それで教授が問いかけを。シャツが捲られた、腕まで。白髪がある、皺もある。口を曲げながら、煙草を吸う姿。重なる知らないなにか、似ている、らくだと警部補。

 問いかけられた、そのカフカの講義室。

おれは、応えている。彼は一体どこへ行ったのか。講義なんぞ、聞いちゃいなかった。代り映えもしない日常から、只管に逃げた人間など。そんなやつ、なにから学べないいのか、変身した毒虫はでかい虫。おおきな、とても人ほどにおおきな傲慢さで出来た、虫と呼べる塊。

 とうのむかし、色んな碌でもないことを総じて、虫と呼んでいた。カフカは誤訳だと、叫ぶ教授はどんな顔を。いとむかし、痛みが伴うなにかは、果たして。

果たして、おれは、"なんの"売人でいるのだろうか。


 気が付けば、屑たちの星が見えている。


 「おまえは、どこへも行けやしなかった。夢を追うことも、ひたむきな砂漠の、その世の中に飲まれることも。逃げたつもりでいた、おまえは逃げれると思っていた。だが、いつだって、追手がいて。それが、途絶える事もなく。やがて、おまえはどこへも行けやしなくなった」


 壁に書き殴るほど、物書きに憧れた人生だった。

誰しもが書く、並々注がれた文字の羅列に棹されて。いつのまにやら、変わり映えのない日々をコンビニで送る。品出し、客を出迎えて、仕事終わりにビールを一缶。ほんとうなら、食材を買うべきところを。駄目な人間だと思いながら、一口。そして、飲み干してしまう、渇き。ずっと、水が飲みたかった。からから、尿すら飲んでしまいたいほどに。品性の欠片もない、物書きがいる。もう、なにも書けやしない、物書きだと。それは、物書きですらない。

 おれは、自分すら売ってしまったのか。

「どこへも行けない、そう応えたおまえは正しかった。それが、答えになっていた」

 「どうして、今頃になって」

「逃げたいおまえを逃がさないのが、俺だった……疲れた、俺も総じて、疲れた。警部補は、悪いやつを追いかけなければならない。それが、捕まえられるということがなくても」

 「ずっと、恨んでいたのか」

「わからない、そう思ったことがないとはいえない。俺にだって、家庭がある。どこへでも行ける、このケツの穴の中で、家庭があるんだ」

 「すべて、屑の星が」

「そうだ、屑の星で、俺は警部補だ。他に何者でもない。どこへも行けやしない、どこにも行きたくはない。ただ、おまえを追うことに疲れた」

 壮大な話を語られている、そんな馬鹿らしさがあって。それでも、声から伝わる揺れが、その真剣さを後押しする。腑に落ちたこと、それでいて終わりの見えない世界に、果てがあったこと。どれも、これも、望んだ応えだと腑に落ちてしまっていた。

 もぞっと、警部補がポケットから。

手に持っていたのは、煙草。キャメルの箱、たっぷり入った箱が、くしゃりと曲がって。目を逸らしながらも、痛ましそうにする。

 「あんた、持っていたのか」

 「ああ、だから、らくだは渋っていたんだ」

 「なんで、出さなかったんだ。出せば、もっと早く」

「さぁ、俺にもわからないことはある。砂漠が実は心地よかったか、それとも終わりが見えたことに、恐れを抱いたか。どちらにせよ、おまえが素直過ぎた」

「それは……いや、もういい。煙草、キャメルだとは知らなかった」

「はは、もう気付いているんだろう。違うな、気が付けば、か」

 懺悔始まる、おれだけの。

頭からイカレそうな話を幾度となく、何べんも書いて。ついに、煙草のらくだが喋るほどには、気が触れてしまった。ああ、気が触れたんだ、随分とむかしに。カフカの講義室は、大勢の、多くの、おおきな、その集合体が迫りくる。どこへも、行けやしない。本来なら、そこをかき分けて行くべきところ。おれは、書き殴った壁を見て、封鎖した。並々注がれた、文字の羅列。そいつは、吐き出そうとした馬鹿なおれへの嫌悪感だった。

「おれは薬を飲んだ、薬を売った。それが毒だと知りながらも、売っていた」

 「そうだ、それがおまえの罪だ」

「夢も、人間たることも、にんげんなんて響きも、すべて忘れて」

「らくだのケツの穴は、覗ける夜が短い。ほんとうは、見せるつもりはなかった。らくだだって本意じゃない」

「ああ、分かっている。売ったんだ、痛みが嫌で、嫌で。自分を諦めた、哀れな毒虫、彼と同じように」

「いや、むしろ、彼がおまえだったのかもしれない。俺は、おまえであるし、ないし、らくだもおまえだ」

 「チープな惨劇だ、カフカよりひどい」

「そのモチーフに囚われたおまえは、もっと残念なんだろうな」

 流れ星が、降り注ぐ。

終わりの時間がちくたくと、水面に落ちるなにかが、迫る。ぽちゃんと、ちゃぽんと、それらが聞こえ始めれば。苦しそうに、眉を顰めながら、こちらを見る。

 警部補、なぜあんたはそんな面をしているのか。

 「もう、夜が来る」

 「とっくに来ている、夜は」

 吐き捨てるように、最後は言ってしまった。

 もう、追いかけたくはないと告げた、おれ。警部補、あんたはおれ。それが心地よいのか、居心地悪いのか。寂しそうにする、目玉がじっと、そのまま。心臓が激しい、うるさい、どうしよう。どくどく、星屑がぼろぼろ零れて。


 「あばよ、売人」


 あんたは、ひどい顔をしていた。



 瞼開ければ、ケツの穴ではなかった。


 這い出した布団の上、涙が止まらずに。胸に手を当てて、おれを売った、おれ。枕元に置いてある、抗うつ剤。まっとうな、にんげん。死よりも、少しばかし恐ろしく思える、それ。



 __気が付けば、おれは売人だった。

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