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教養小説 ホモ・アド・センサム〜意味を与える者〜 (1)

教養小説 ホモ・アド・センサム〜意味を与える者〜 (1)

それを食べると、目が開け、神のように善悪を知るものとなる・・・お前は生涯食べ物を得ようと苦しむ。

———— 創世記3


真実なものは後世になってもほころびることはありません。

———— 詩人 ゲーテ「ファウスト」より


教養とは何かって?この話を笑い飛ばせるなら、あなたは教養人ですよ。あははは。

———— 悪魔


0. 躁鬱患者の戯言(されごと) —自己流精神介護と現代的奴隷—


父は学生時代、不幸な金持ちを相手に自己流の「カウンセリング」をしていた。ちょっとした小遣い稼ぎのためだったと父は言うが、実際は随分と儲かっていたらしい。


母が誰かに殺されてから四十九日目の夜に、父はその「カウンセリング」のことを詳しく教えてくれた。中学生だったぼくには理解できない部分も多かったが、話が終わった後、日記に向かって一生懸命記録した。父への贔屓目はあるにせよ、少なくともぼくにとって、何か重要な事柄が含まれているように思えたからだ。


母が死ぬまでの父は、いかなる組織とも関わらない独立した研究者として理論物理学の研究に没頭していた。それはつまるところただの無職であり、毎日、リビングルームのテーブルで、調べ物をしたり、ノートに数式を書きつけたりしていた。父と大学で同級生だった母は、幼少期から女優とモデルの仕事で実家の家計を助け、大学四年生のときにぼくを出産し、卒業とともに外資系の大手メーカーで働いて父とぼくを食べさせた。それなりの苦労はあったはずなのだが、その気配は微塵も感じさせなかった。むしろ母は磨き上げられた宝石のように不思議な輝きを放ち、人々をうっとりさせた。その母の面影があると言われるとき、ぼくはいつも誇らしい気持ちになった。


学生時代の父は、天才的な数学センスで将来を嘱望されていたが、学位を取った後に就いた大学の職を一年で投げ出した。自分の研究となんの関係もない仕事を嫌がったのだ。父は家族以外の人間との交流を絶って家に閉じこもった。すべての時間は研究を進めるためだけに使われた。眠っている間は夢の中で研究を進めていた。引きこもってから七年後、父はプレプリントサーバーにひっそりと論文を公開した。父が七年かけて構築したその理論にはセンセーショナルな反響があった。業界では父の論文の噂で持ちきりとなり、突如現れた天才研究者として父は一躍時の人となった。学生時代までの父を知る人々は当然の成果だと考えた。そして、その頃に母は誰かに殺された。父の理論に世間が騒ぎ始めた時期だったので、母が殺されたこの事件のことはメディアがこぞって取り上げた。犯人の手がかりがまったく無いということも、世間の興味をひいた。


四十九日の法要を終えた、その夜の父は躁のタイミングにあたっていた。母が死んでから父は躁状態と鬱状態を一週間ごとに繰り返していた。医師の診断は双極性障害Ⅱ型だった。軽度ということで、生活に大きな支障はないだろうという見立てだった。

躁状態になると父は饒舌になった。特に夜になると父はとめどなく話した。双極性障害の診断が下された当初は、躁状態のときに気が高ぶって朝まで眠れず、父は困っていたのだが、夜に集中的に喋ることで体力を徹底して消耗させ、心身ともに疲弊しきったタイミングで処方薬を飲むと良く眠れるという法則性を発見してから、そのルーチンを習慣にしたようだった。父は、自分自身を高い精度で観測し、その観測結果をフィードバックしながら自分を思い通りに制御できるのだった。そんな芸当はぼくにはできない。ぼくは父にまったく似ていない。特に、父の長所は何ひとつとして遺伝しなかった。


「研究者になろうなんて、よほどの間抜けだけだ。食えないからな。ましてや、せっかく雇ってもらった大学を辞めるなんて噴飯ものだ。自分の研究に没頭したい?はっ、間抜けも間抜け。大間抜けだ」

父はぼくにオレンジジュースの入ったグラスを差し出して話し始めた。ぼくは、リビングルームの四人がけのテーブルに父と向かい合わせに腰掛けた。

「そういう世の中だよな、現代ってやつは。みんな食えなくなるのが怖いんだ。気持ちはわかる。貧困は苦悩そのものだ。経済的困窮は精神を空疎にする。恐ろしいことだ。だが、ビビって誰も研究者になろうとしない世の中はクソだ。そうだよな?そんなクソみたいな世の中で、なんで俺が大学の仕事をゴミ箱に投げ捨ててしまったと思う?」

ぼくは黙って父の話を聞いた。躁状態の父が饒舌になることには慣れていたが、この時の父の目つきは不気味だった。それまでは躁状態であっても、父はぼくに向かって話していた。しかし、この時は、ぼくではない別の何かに向かって音声を発していた。

「大学の仕事がクソだったからだって?そんなトリビアルなことが解答として許されるわけないだろう。クソな仕事をなぜ辞めたのか、というのが出題者の意図だよ。となれば、答えは一つだけだな。そう。楽をしてカネを儲ける才能があったからだ。今でもあるぞ?最近は論文を投稿して暇だから、たまに出かけていって稼いでいるよ。趣味みたいなもんだがね。

どうやって稼ぐのか気になるだろう?みんな儲け話が大好きだよな。

ビジネスモデルは単純だ。不幸な金持ちの集まっているところに出向き、彼ら彼女らに刹那的な救いをもたらしてやり、その対価を得る。彼らは救われるし、俺は労せずにまとまったカネをもらえる。

不幸な金持ちに与える刹那的な救いとは何か。それは精神的な介護だ。カウンセリングよりも即効性があって、ホストが与える類いのプラセボでもない。彼らが抱えて苦しんでいる重しを実際に取り除いてやる。薬物ではなく、対話によってだ。人間の苦しみも救いも、人間との関わりによってもたらされる。みんな救われたいんだ。俺はそいつらに救いをもたらす。対話によって救ってやる。

最高の社会貢献だと思わないか?金儲けやら出世やらに忙しくて精神を成熟させる機会を逃してしまった連中の精神を支えてやるんだ。その結果、金持ちから庶民にカネが渡り、格差が縮小する。尊い仕事だろう?」

父は上機嫌でこう言い、ぼくに目を向けた。ぼくは曖昧にうなずいた。

「彼らは自分だけでは精神を支えきれないから、赤の他人に精神の面倒を見てもらう。だからこの仕事は介護職だ。自立できない精神を介護するんだ。いつだって介護は社会的な問題だ。そして俺は彼らの介護ができる。才能があるんだ。

この仕事に、精神的な介護に必要なスキルが何だか、お前わかるか?口が達者であること?弁が立つ事?まさかまさか。そんなことはまったく関係がない。観測と制御だよ。人類の知性は観測と制御によって築かれたんだ。俺は彼らの同類だし、その苦しみを克服した者でもある。だから、連中をひと目見れば、精神の有様を精密に測定できる。これが観測だ。そして、どう働きかければその精神が慰められるのかもわかる。制御だな。俺は物心がついたガキのころから、他の誰とも意思疎通ができなかった。意思疎通できたのは、本や映画や音楽で知る偉大な存在とだけだった。俺の最初の記憶の話はしたことがあったっけな?バッハの話だよ。二歳か三歳の俺が、母親の膝の上でグールドの弾く硬質なバッハを聴いている。その時俺は、この先の人生で誰と出会おうとも、これ以上の感動を感じることは無いんだろうと直観した。それは言語以前の直観だった。実際、音楽や文学や数学や物理に感動することはそれからもしばしばあったが、生きた人間に感動したことは一度も無い。感動どころか同じ生き物であるとすら認識できなかった。直子と出会うまで、この世界に生きている誰とも意思疎通ができなかった。まことに悲しいことだ。

仕方なく、俺は自分の精神の均衡を保つ方法を、子供ながらに独力で開発していった。これは後天的に磨いた技術だ。才能ではない。技術だからこそ、精神の均衡を保てずにぐらぐらと揺らいでいる連中を見れば、どこにつっかえ棒を付ければ均衡を取り戻せるかわかる。精神の均衡を取るのは技術なんだ。アイススケートと同じだ。技術さえあれば、僅かな力でスーと氷の上を進める。技術の無い素人は氷の上に立っただけで翌日は筋肉痛だ。

俺が介護してやるのはエリートとして生き抜いてきた連中だ。連中は根性が座っている。根性でエリートになれたようなやつらだ。根性があるから自分の精神がぐらぐらしていても倒れない。ぐらぐらした精神を倒れないように四六時中根性で支え続けるんだから、それは猛烈なストレスだ。だから彼らは常に不愉快そうにしている。心を許した相手には、常にぐちをぶちまけている。可哀想なことだ。

もちろん表面的には機嫌よく振る舞っているよ。社会的分業制の中で特定の役割を演じることを自分自身に課しているわけだから、表面だけをみている限りは絶対に不愉快な表情などしない。時に不愉快な表情をしていたとしても、それは必要に応じて作られた表情だ。俳優と同じだ。彼らは感情を捏造できるんだ。つまり、俺が言う彼らの不愉快さというのは、彼らの精神の芯にあたる部分が、毒で犯され腐敗しているということだ。

俺にとっては幸いなことに、彼らは自分の精神の芯を観察することなど絶対にしない。自己矛盾に陥るのが怖いんだ。だから俺の刹那的な精神介護ビジネスが儲かるわけさ。彼らは自分の表層しか見ない。自分の精神に芯があることなんて知りもしない。彼らは目に見える表層面を気にかける。即物的な物事が円滑に進めばよいから、それで問題がないんだ。だが、この世界にフリーランチは存在しない。何かを代償として支払うことで、表層面の体裁を整えることができる。支払う代償は、精神の芯の部分に溜まっていくヘドロだ。表層面を取り繕うために塗りたくった化粧が、芯の部分に沈殿していく。それは悪臭を放つ重々しいヘドロになっていき、芯の部分を腐敗させるんだ。

目に見えるものだけしか扱えないということ、これが近代以来の理性主義者の限界だ。これは科学が観測可能な対象だけを扱うことと呼応している。俺はこの近代人の抱える制約がヘドロを生むのだと直観していた。だから、見えないものを見ることでしか得られない価値を、科学の言説で覆い隠して差し出すことが、現代人の精神をもっとも心地よくくすぐるのだと知っていた。

俺は科学的な言説で精神の芯をモデル化し、彼らにそのモデルを使って救いがなぜ訪れるのかを説明してやる。ふふふふ。それは虚構ではないぞ。これを虚構と言うならば、科学は虚構だ!あははは。勘違いするな。フィクションではなくモデルなのだ!モデルによって連中は納得する。実際に救われているのだと、やっとこさ理解できるんだ、やっこさんたちは!は、は、は、は!ひ、ひ、ひ、ひひひ・・・!」

父はここで笑い始めた。何が可笑しかったのか、ぼくにはわからなかった。躁転した父は、話しながら突然笑い出すことがあった。だが、この時の笑いはそれまでのどれとも違っていた。大きく開いた口は、顔の半分が口になったようだった。肩を震わせながら、時折、小さな子どもの熱性痙攣のように上半身がびくっと動いた。ぼくは無表情のまま立ち上がり、オレンジジュースを追加するために冷蔵庫を開けた。

グラスを持ってテーブルに戻ると、父は「いや、すまんすまん、これは傑作だ」と言いながらまだ笑い続けていた。父も自分のグラスを持ち、まだ笑いながら冷蔵庫を開けた。取り出したアイスティーを注ぎながら「やっこさんたちは」と言った後、また笑いが込み上げてきたらしく、しばらく笑いを堪えていた。

「ああ苦しかった。本当に傑作なんだよ、やっこさんたちは。お前に見せてやりたいよ。はあ、苦しい。いや、これはいかん。クライアントをこき下ろすのは商道徳にもとる行為だ。いかん。今のは聞かなかったことにしてくれ」

そう言った父は、しばらく深呼吸をして何とか笑いをおさえて息を整えた。

「いやな。科学的な言説なんて、不要なはずなんだよ。彼らは実際に救われているんだから。だが、彼らは救われていることすら自分で感じられないんだ。しょうがないから、中途半端な理性主義者でも了解できる言語で説明してやるのさ。俺が何をしているのか。そうだな、バリューが生まれるメカニズムとやらを。ふふふ。その言語を学ぶために、パワーポイントの立派なプレゼン資料をいくつか入手して、眺めたことがあるよ。その言語を使って説明してやると、彼らは安心して身を委ねるんだよ。言ってる意味わかるよな?」

父は笑いすぎて疲れたらしく。しばらくアイスティーを飲んでぼくの回答を待った。ぼくは父の呼吸が落ち着くまで考えるふりをしてから「今日の父さんは特に機嫌が良いみたいだ。何かあったの?」と聞いた。


つづく

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