俺は、引きずらなきゃいけないと思う
やってやんぞ。
匡の病室は、控えめに言ってとても豪華である。
院長の一人娘にあてられた部屋なのだから、そりゃある程度は良いところを割り当てるというのが人情なのだろうが、それにしたって恵まれている。
まず、広い。床に壁に天井と、視界に入る三方が全て染み一つないミルク色で揃えられているので、無限に広がる銀世界にでも迷い込んだのかと思う。
家具も一式揃っている。白くてふかふかの大きなベッドは、溶けない綿雪でも積もってるのかと思うぐらいに、優しく体を受け止めてくれるし、少し離れた場所に鎮座している冷蔵庫には、来客用の菓子類が常備されている。一体となった冷凍庫には野菜やら肉やらが入っており、なぜか存在するキッチンで料理もできる。
加えて、自分用のトイレと風呂がある。言うまでもないがトイレはウォシュレット付きだし、風呂も大きい。勿論、トイレと風呂は別々である。下手なホテルより何倍も気が利いている。
それに加えて、テレビにパソコンにゲーム機に漫画に小説と、娯楽にまつわるものは全て最新型が揃っている。もしも平均的な同年代の人間が彼女の生活環境を見れば、嫉妬心だけで五臓六腑がねじ切れるだろう。久義は平均よりやや頭が鈍いので、平気の平左である。
今日も今日とて、パジャマ姿の匡は、雲のようなベッドにちんまりと腰を下ろしていた。いつもと違うのは、目の前に日々木がいることだ。彼女に与えられた来客用の椅子は、吉田診療所のそれより何倍も上等である。日々木が今後、あの病院の痩せたパイプ椅子に耐えられるかどうか、久義はいらぬ心配をした。
「さっきはごめんなさい。僕の母が、変な勘繰りしちゃったみたいで」
匡が謝る。形のいい黒い眉が、綺麗に八の字を描いた。立方譲りの美しさに、そこはかとない儚さの混じる顔は、今日も今日とて精巧な人形のように整っている。一人称が「僕」であることを除けば、どこに出しても恥ずかしくない美少女である。もっとも、そう感じるのは久義の眼が、やや幼馴染贔屓だからかもしれないが。
「謝らないでください。別に、何とも思っていませんよ」
言葉少なに、無表情で日々木が答えた。恐らく嘘だが、それを指摘したのではこの病室に血が舞うことになるので、黙っておく。今やるべきことは日々木の思い出し怒りを防ぐため、先程の立方の台詞の一字一句を、全てNGワードに登録することだ。もっとも久義は馬鹿なので、そもそも覚えていないのだが。
今後の日々木相手の立ち回りに頭を悩ませる久義と違い、彼女の本性など欠片も知らない匡は、安堵したように息を吐いた。
「良かったぁ。久義のお友達に嫌な思いさせてたら、どうしようかって焦りましたよ」
「敬語じゃなくていいですよ。私の方が年下ですから」
「あ、そっか。そういえば、さっき久義の後輩さんだって言ってたね」
見た目だけでいえば、匡のほうが幼く見えるが、確かに彼女の方が一歳ほど上だ。もっとも、久義など二歳は上になるのだが、敬語は継続させられている。仕方がないのだ、弟子なのだし。弟子が舐めた口を利けばデスになるのは世の常である。
「じゃ、改めて自己紹介をば。僕は箱内匡。あまり人に紹介したくない父親と、あまり人を紹介したくない母親との間に生まれて、十九年になるよ」
それから、彼女は自分のベッドの縁に腰掛け、大人しくしている久義を親指で示した。
「そこでムスッとした顔してる久義とは、幼馴染で、親友だよ。こいつ共々よろしくね、日々木さん」
「こちらこそ」
日々木が言う。いつも通り表情筋は死んでいるが、会話の合間に殴る蹴るの暴行に及ばないので、かなりマシである。平時の二割増しでホモ・サピエンスに見える。
「にしても、珍しいね。久義が後輩さん連れてくるなんて。いや、珍しいどころじゃなく、初めてかな」
「あ……うん。ちょっと、成り行きで」
嘘は言っていない。本来、日々木がこの病室にまで来る予定はなかったのだ。立方に捕まり、なし崩し的に入り込んだ次第である。
「でも、良かったよ。久義に僕以外の友達が出来たみたいで」
匡が親のようなことを言った。揶揄うように、ニマッと笑いながらだ。
久義は困ったように、指の腹をザリザリと擦り合わせた。
「お、俺にだって……他の友達ぐらいいるし」
「えー、でもそれって全員男でしょ? こんな可愛い女の子の友達が出来たなんて、僕聞いてないんだけど―?」
笑み交じりのその言葉からは、どういう訳か圧を感じる。少し不機嫌っぽい。幼馴染の久義にしか分からないぐらいの機微だ。もっとも、原因の方は皆目見当もつかないのだが。
久義はむぐ、と口ごもった。どうにも、この幼馴染を相手にすると劣勢になる。彼女と背丈が同じぐらいの頃からの力関係だ。きっと死ぬまでそうだろうと思う。
丑の刻参りに関する罪悪感も、未だ拭い去れないことだし。
表向きニコニコしながら、匡は日々木に視線を戻した。
「そういえば、日々木さんは久義といつ知り合ったの?」
「少し前です。まだ一月も経ってないですね」
「ふーん、そうなんだ。僕は知り合って十四年だよ」
「はあ、そうですか」
心なしか得意げな匡に対し、日々木は無表情で返し、久義に視線を向けた。この少女は何を意図してこんなことを言ったのか、教えてくれと言わんばかりだ。しかし久義としてもよく分からないので、無言で頬を掻くに留めた。
「久義の好物知ってる?」
「いや、知りませんが」
「焼きおにぎりだよ。ご飯のおこげとか、トーストとか、香ばしいやつが好きなんだ。オムライスとかハンバーグとか、メジャーな料理を作ってやった時と同じぐらい、簡単な焦げ料理で喜ぶからさ。安上がりだけど、もてなし甲斐のない男だよね、こいつ」
「はあ、そうですか」
ますます得意げになる匡に、日々木は再び久義を見た。いつもの無表情に、面倒くさそうなニュアンスが滲む。そんな顔されたって、困ってしまう。久義としても、こんな匡は見たことないし。
だが、このまま匡を野放しにしていたのでは、日々木が不機嫌になってしまうかもしれない。そうなった場合、後で痛い目や血やその両方を見るのは久義である。あるいは、そのどれも見ることなく、目に指を入れられるかもしれない。
それは何としても避けたいので、久義は話を変えることにした。
「そういえば、最近曇りが多いよな」
「神武以来、甘倉は曇りが多いだろ。話を変えるにしたって、唐突に天気の話題を出すのはあからさますぎない?」
変えられなかった。
「いいじゃん、僕と日々木さんは初対面だぜ? 共通の知人を会話の糸口にするのは、よくある話だろう?」
「……そうなのか?」
久義はコミュニケーション能力がアブラムシと同程度なので、そこら辺の常識は分からない。分からないので、口を出すべきではないだろう。引き下がることにする。
匡はニコニコと日々木に言う。
「僕と久義の出会い知りたい?」
「宇主ヶ森で、伊国さんがご両親と一緒にピクニックをしていたところに、出くわしたんでしょう?」
「あ、知ってるんだ」
「貴方のお父様から聞きました。一際大きな木のある、拓けた場所ですよね? 私たちもよく行きます」
「……私たち? ……それって、日々木さんと、誰?」
「伊国さんですね」
匡はそこで久義に笑顔を向けた。背後に炎が見えた。お不動さんかと思った。
「久義、どういうことかな」
「え? ……どういうことかと言われても」
まさか、そこで術士としてルール無用の残虐鍛錬を積んでいるという訳にもいくまい。久義は誤魔化すことにした。
「あれだよ。……蝉とかクワガタとか取ってる」
「その言い訳が使えるのは小学校の夏休み限定だぜ?」
「……というのは嘘で、適当に……ピクニックしてる」
「……ふーん。ほー。へー」
匡の背後の炎が大きくなったような気がする。
グリンと首を動かし、彼女は再び日々木を見た。
「そういえば、日々木さんは久義の釘芸見たことある?」
彼女が何かを答える前に、どこに隠していたのか、匡はパジャマの袖からルーズリーフ製の折り紙を出した。縦長六角形に折られたそれは、匡が息を吹き込むと、立方体の紙風船となった。
ぽんと、宙に放る。
「久義」
「……おう」
幼馴染の号令に、久義は懐から釘を取り出すと、親指で弾いた。その銀の先端は一寸も狂いなく、紙風船の中心を貫くと、久義の掌に落ちた。
続けて、匡は更に数個の紙風船を放った。その全てに久義は釘を放ち、命中させた。一つの紙風船に、三本の釘を立て続けに当てることもあった。
むふう、と匡は満足げに鼻息を出した。
「どう。凄いでしょ」
「はあ。まあ、確かに」
日々木は無表情で言う。もう既に鍛錬で見飽きた芸を前に、実に退屈そうだ。
「実はこれ、久義が僕を楽しませるために、練習したんだよ」
「箱内さんを楽しませるために?」
「うん。病室で暇そうにしてる僕にね。小さかった頃の久義が必死になって覚えて、披露してくれたんだ。僕一人のためにだよ? 嬉しかったなあ、凄く」
改めてそう言われると、何だか照れてしまう。久義は首筋を掌で擦りつつ、赤くなった頬を見られないようそっぽを向いた。
匡はそんな久義を横目で見て、満足げに笑いながら、言った。
「新技のリクエストなんかもしたなあ。あれやって、これやってってさ。その度に久義は時間をかけて、色んな芸を修得したんだ。ま、つまり久義の釘芸は僕が育てたようなもんさ。ある意味師匠だね、師匠」
「……師匠?」
「そ、師匠。僕は単なる幼馴染じゃないってことさ。日々木さんは久義とピクニックに行ってるようだけど、こいつに何かを教えたりしたことなんてないだろう? ま、ただの友達なら当然か。そうだよ、ただの友達だよ。ピクニックぐらい、ただの友達ともするもんね。うん、全然普通。というか僕だって昔はピクニックぐらい腐るほどしたし」
ピクニックが腐るとはどういうことだろう。幼馴染の言葉尻だけ捕らえて首を傾げる久義を他所に、日々木は無表情で黙り込んだ。匡の「師匠」というワードを聞いてからここまで、ずっとその調子だ。
そして、ようやく彼女は口を開いた。
「……もっとすごい新技を、御覧に入れましょう」
「は?」
笑顔のまま首を傾げる匡を他所に、日々木は久義を見た。
「伊国さん、立ってください。そして、今持っている紙風船をこちらに渡してください」
「え? ……はぁ、分かりました」
取りあえず言うとおりにしてみれば、彼女は続けて久義を移動させた。ベッドの脇に広がる、のびのびとヨガが出来そうな大空間だ。
ぼんやりと突っ立っている久義に、日々木は先程の匡のように、ポンと紙風船を投げた。
それから一拍遅れて、彼女は釘も放った。
そして一言、
「踵」
と呟いた。
それが何を意味するか、久義にはすぐに理解できた。
間髪入れず、タンッ、と跳んだ。
そのまま、頭を自分の腹筋目掛けて潜り込ませるようにして、回転。
脚が、まるで鉄槌のように、振り下ろされる。
その踵が、空中で釘を捉えた。
カッ、と床で音がした。
釘に打ち抜かれた箱が、転がっていた。
日々木は続けて、二個の箱と、四本の釘を投げた。
「拳。爪先。膝。肘」
彼女の呟く体の部位で、久義は釘を弾き、箱に突き刺していく。太い四肢が躍動し、その度に病室の空気が掻き混ぜられた。
これは、日々木との鍛錬で習得した技だ。筋肉で重くなった手足での針の穴を通すが如き精密動作。空中の釘を一寸も狂わず捉える動体視力。その両方があってはじめて為せる技である。
要は、全身で指弾めいたことを出来るようにと、習得した技であった。遠距離攻撃のバリエーションが増えれば、戦闘スタイルにも幅が出るとは日々木の弁である。
しかし、どうしてそれを一般人の匡に見せる必要があるのだろう。久義は釘の刺さった箱を拾い、さりげなく床に傷がついてないか確認してから、日々木を見た。
無表情の日々木がいた。
無表情のまま、むふう、と鼻息を漏らしていた。
「私の仕込んだ芸の方が凄いです」
彼女は表情筋が死んでるだけで、青筋といい鼻息といい、感情豊かなのだなあと思った。
とにもかくにも、日々木は満足したようだ。きっと、師匠である自分を差し置いて、ただの幼馴染である匡が師匠面をしたのが気にくわなかったのだろう。ポーカーフェイスに似合わず負けず嫌いなのだ、彼女は。
しかし、ここで怖いのは匡である。どういう訳か先程からすこぶる機嫌の悪い彼女が、こうして仕込んだ釘芸でマウントを取り返されれば、どのような恐ろしいことが起こるかは想像に難くない。いや、正直あまり想像は出来ないけれど、とりあえず最終的に自分が割を喰う姿だけはありありと瞼に浮かんだ。
戦々恐々、久義はおっかなびっくりといった様子で、匡の方を見た。
「……ふふ」
しかし。
「……匡?」
「ん? あ、ごめんごめん」
幼馴染は、見慣れた穏やかな笑みを浮かべていた。先ほどまでの不穏な気配が、嘘のようだった。
彼女はくすくすと愉快そうに笑い声を溢してから、日々木を見た。
そこには、もうどんな敵意もなかった。
「なんか、嬉しくなってさ。君と……こんな風に話してくれる子が、僕以外にいることが」
「え?」
久義はポカンとした。日々木の方を見たら、彼女も無表情ながら、状況が掴めてないようであった。黙って、匡を見つめ返している。
「……さっきも言ったけどさ。久義は、友達が少ないんだ」
「う……うん、まあ、そうだけど」
久義は少し苦い顔をした。幼馴染が述べているのは一から十までまごうことなき事実だが、それはそれとして気恥ずかしいし、居心地が悪い。
そんな彼を、匡はちらりと見た。
「こいつは根暗で、顔が怖くて、図体も大きい。手足だってタコに傷にてんやわんやで、ゴツゴツとして厳めしい。そのせいで、全くと言っていいほど人が寄り付かない。でも」
匡はするりと、掌を伸ばした。彼女のすべすべとした小さな白い手が、久義の大きな拳に被さった。
暖かい手だった。
「こいつは、これで凄く優しいやつでさ。十年以上毎日のように見舞いに来てくれるぐらいには、友達想いだ。雨の日も風の日も、僕が面会謝絶とかじゃない限り、いつもこの病室にやってきて、僕の話し相手になってくれる。……僕が、どんな酷いことを言っても」
匡は日々木を見ていた。
彼女の瞳に映る自分を見ているようだった。
あどけない、子どもの頃からあまり変わらない、己の容姿。
「……治らない病。すぐに崩れる体調。そういうのと長く付き合ってるとさ。どうしても、虫の居所が悪くなる時がある。自分を取り巻くあらゆる悪業を、全部誰かのせいにしたくなる時がある。……今は違うけど、子どもの頃は、そういうタイミングに満ちてたんだ」
匡は目を伏せるようにして、寂しく笑った。
「僕は……そのサンドバッグに、久義を選んだんだ。……彼の丑の刻参りを、選んだんだ」
日々木は何も言わない。久義も、何も言わなかった。匡に手を握られたまま、彼女の言葉を待つ。
「『僕が苦しんでるのは、君の丑の刻参りのせいだ』『僕を呪ったくせに、よく僕の前に顔を出せるな』『早く消えてくれ。それとも、僕が病にのたうっているのを見て、悦に浸っているのかよ』。……これでも、まだマシな方だよ。もっと酷い罵詈雑言を、僕は子供の頃の久義に浴びせかけた」
久義は少し、表情を曇らせた。当時の記憶が、フラッシュバックしてきた。
あれは、確かに堪えた。そんな資格が、自分にないことは分かっていたが、それでも堪えた。
匡はなおも、久義を見つめる。
穏やかな微笑が、唇に宿る。
この世に天使がいて、笑う機能が備わっているならば、その時浮かべる笑みはこんなものではないか。
そんな笑みを、匡は浮かべていた。
「久義。君はもっと沢山の友達を作るべきだ。僕にいつまでもこだわる必要はない」
それなのに、瞳は。
冬の朝の青い空のように、美しくて、寂しげだった。
「いつまでも、丑の刻参りを引きずる必要なんて、ないんだよ」
久義は、言葉を失っていた。
確かに、彼女の言葉は救いだ。受け入れてしまえば、きっと心に蹲る重荷が、いくつか大地に下ろせると思う。
だけど。
「駄目だ」
久義は、やや俯いて、言った。
「俺は、引きずらなきゃいけないと思う。そうやって……お前に、こだわるべきだと思う」
口にして、しかし、今の言葉はどこか外れている様に思った。
自身の心の内と、どこかそぐわない。
言い直そうとするが、上手い表現が見つからなかった。
むにゃむにゃと、口ごもってしまう。
ちらりと、匡を見た。
彼女も、久義に合わせるように、微笑んで床を見ていた。
寂しげな目で俯く匡が、心に刺さった。
(何で俺は、お前に、そんな表情)
馬鹿だ。
俺は、馬鹿だ。
そう思う。
自分の不甲斐なさが苛立たしくて、怒りが充満していくのを感じる。体内の血が熱を帯びるようだ。
奥歯が、ギリッと、硬い音を立てた。
結論から言えば、そうして奥歯を食いしばっていたのが、功を奏した。
次の瞬間、彼は床に蹴り倒されていた。
「うぇ!? ちょ、え!? ひ、久義!?」
匡は目を白黒させて、すぐに目の前にいる現行犯を睨んだ。
「……どういうつもり、日々木さん。僕の幼馴染に、ハイキックなんて叩き込んで」
「この状況では、ハイキックが一番威力を出せるかと思いまして」
「へ? あ、いや……僕はDPSの話はしてないんだけど」
予想外の返答に若干相手が怯んだ隙に、日々木は床に伸びている久義の頬を張った。
目をパチクリさせる弟子の腕を掴み、カブでも抜くような乱暴さで無理やり立ち上がらせると、彼女は匡を見た。
依然として無表情であったが、しかし久義がその目を見れば分かるだろう。
日々木の瞳に、厳しいものが宿っていると。
「箱内さん。貴女は、もう少しこの男に怒るべきです」
彼女の言葉に、匡はほんの少し、怖い表情をした。
「……何が? 丑の刻参りについて?」
「ええ」
日々木は彼女の表情に怯むことなく、言った。久義の心臓が、ビクンと跳ねる。そんな彼をちらりと見て、匡は日々木に敵意を湛えた。
「怒る訳ないだろう。だって呪いだよ? 効果なんてある訳ない。それに目くじら立てろっていうの? これ以上、久義の負い目を増やせって言うのかよ」
「貴女が怒るべきは、その負い目についてです」
「え?」
日々木は久義の首根っこを掴むと、まるで罪人を突き出すようにして、匡の目の前に屈ませた。
視線が同じ高さになる。
顔が近い。
ハッと、息を呑む音が重なる。
匡と久義が発した音。
ここまで近づいたのは、子どもの頃以来だと、ぼんやりと久義は思った。
「貴女が丑の刻参りを気にしていないのは百も承知です」
後ろから、日々木の声が聞こえてくる。
匡は何も言わない。ただ、久義の眼を正面から見つめていた。その口元に、微笑はない。悲しみを隠すような、寂しげな笑みは、綺麗さっぱり引っ込んでいる。
「でも、負い目は気にしている。この男が、自分のやった行いに囚われていることを、苦々しく思っている。でしょう」
「な……何で、そんなこと思うのさ」
匡は久義を見ながら、視界の端にいる日々木に尋ねた。
声は凪いでいる。
しかし、そこに敵意はない。
日々木は少し言葉を切り、答えた。
「貴女が久義さんのことを大切に想っているから、ですかね」
「分かるの?」
「判断材料には事欠きませんでした。貴女の行動や言葉の節々を見ればね。なんなら、貴女の行動の裏から読み取れる心の内を、ここで一つ一つ解説してもいいですよ」
「い、いや! 遠慮しとく!」
匡は少し頬を赤くして、大きな声を出した。久義は少しだけ驚いた。彼女が圧されているのを見るのは、初めてだったから。
ただ、どういう訳か、初めて見る彼女のタジタジした姿は、どこか愛らしかった。
自分の幼馴染は、こんな生き生きとした顔ができるのか。
久義はそう思った。
「やるせないですからね」
視界の外で、日々木が言う。
その声には、いつもの淡々とした色はなく、どこか寂しげだった。
「大切な人間が、自分のために負い目を感じているというのは」
頬を染めていた匡が、ふっと、強張った。そして、瞳に走った緊張を逃がすように、彼女は視線を窓の外に向けた。
「図星ですか?」
日々木が尋ねる。
「うるさいな」
匡がそっぽを向いて言う。
その視線が、窓の外に飛んでいく。
曇天。
甘倉の湿り気が、彼女の視線を伝って、病室に流れ込んでくるようだ。
空気が水を吸った雑巾のように、重くなっていく。
日々木は喋らない。
久義も喋らない。
匡も——。
彼女の視線が、そこで、久義に向いた。
「ねえ、久義」
「……何だ、匡」
匡はそこで言葉を切り、あるかないかの沈黙を挟んで、続けた。
「久義が僕とずっと一緒にいてくれるのはさ。……もしかして」
その続きが、匡の口から出ることはなかった。
彼女は一際、寂しそうな笑顔を浮かべて、首を横に振った。
「いや、止めとく。正直、今の僕には……この問いを投げかける勇気も、権利もないから」
「……匡」
そこで、久義も押し黙った。
彼女の問いが、分からなかったからではない。
匡が何を聞こうとしているのか、ぼんやりと、想像できた。
でも。
その問いに対して、今の自分が上手く答えられる自信がなかった。
ふっと、首根っこを掴んでいた日々木の掌が、離れた。
それに合わせるように、久義もまた、匡から離れる。
無音。
綺麗で豪奢な病室に、密度の高い沈黙が満ちていく。
それを破ったのは、匡だった。
「……そろそろ、帰った方が良いかもね。一雨きそうだ」
「そうですか」
答えたのは日々木だった。
彼女は無機質な目を、匡に向けていた。
あるかないかの憐憫が、琥珀色の瞳に佇んでいた。
「貴女がそれでいいなら、お暇します。帰りましょう、伊国さん」
久義の返答を待たず、彼女は踵を返した。
スニーカーの音が、病室に響く。
それが、扉の前まで行った時。
「ねえ、日々木さん」
匡が呼び止めた。
日々木は何も言わず、こちらを見た。
「出来れば、もう君には会いたくないかな」
匡は今にも雨の降りそうな鈍色の空を眺めながら、そう言った。
やってやんぞ。