漢字に横文字のルビを振る文化は、もしかすると滅ぼすべきかもしれない
やってやんぞ。
箱内病院は甘倉市がまだ『天暗』と呼ばれていた頃からの古株である。何でも五百年以上前から、この地で医学に携わっていたらしい。古くは精神医療の役目を担っていたようで、そこからどんどん人々の信頼を勝ち得ていき、今は総合医療にシフトしている。吹けば飛ぶような歴史と人望しかない吉田診療所と比べれば、月とすっぽんである。勿論、ここでは吉田診療所がすっぽんである。すっぽんの方が肉やら生き血やらで人の健康に貢献している気がするが、その話は置いておく。
ともかく、そんな押しも押されぬ大病院に、今日も今日とて幼馴染の見舞いのため、久義は来ていた。頬が酷く腫れている。無論、原因は虫歯などではなく、彼の前を我関せずと歩く日々木である。
丑の刻参りの謎解きを止めてから、数日。肉体強化と自己治癒だけを集中的に鍛えるということで、彼女のしごきはよりきつくなっていた。今日もまたタコ殴りだ。全身の骨を砕いて、本当にタコにしてやろうという殺意が見え隠れするぐらいのペースで、ボコボコにされた。
自己治癒で治せるところまでは治したが、それでも酷い虫歯と同程度には、腫れが残ってしまった。
日々木に【日々の造形】で治してもらおうとしたが、「回復も治癒術識の鍛錬です。自分でやってください」と相手にされなかった。出るとこ出てやろうかと思ったが、術士に日本の法律が通用するか分からなかったので、諦めた。
見事なまでに、満身創痍の日々である。美少女に殴ったり蹴ったりされることをご褒美という文化もわが国にはあるが、目に指を突っ込まれたり、睾丸を潰されたりした場合は、その限りではないだろう。そして、久義の実戦訓練もその限りではなかった。まさか本当にチョキを出されるとはと、血涙を流しながら思ったものである。ちなみに目玉とは別のボールをクラッシュされたときは、何も思わなかった。何かを思う前に意識が飛んだ。
「流石に訓練での金的はなしにしましょうか」
治癒の術識を施しながら、日々木が無表情でそう言うものだから、傍から見ても重傷だったのだろう。後日、吉田から聞いたところによれば呼吸が止まっていたようだ。大方の格闘技で金的が禁止されている理由が分かった気がした。ちなみに目突きはありのままだった。日々木は蛮族だった。
そんなルール無用の残虐ファイトな訓練を経て、久義はだんだん強くなっていた。無論、筋力や反射神経、術識の練度が格段に上がった訳ではないが、痛みに対する耐性が跳ね上がった。今ならば多少のサミングは気にすることなく、鉄拳をぶち込める自信があった。金的は普通に死ぬ自信があった。
久義はノソノソと日々木の後ろを歩きながら、ぼんやり言った。
「俺、今あの藁人形と戦ったら、勝てますかね」
「無理です」
バッサリと言い切られると、日々の苦労が全然報われない気がして、泣いてしまうので止めてほしい。しかし、日々木は言葉を選べるほど器用ではないと、交流する中でしみじみと身に染みているので、仕方がないと諦める。言葉より先に手が出るタイプなのだし、拳骨が飛んでこないだけマシである。
日々木は箱内病院の窓から、遠くに見えるウスグ森を少し眺めながら、言った。
「識上にも種類があります。脅威も様々。比較的弱いのは、個人の思念が識に反応して誕生したものです。これは例えば、死に際の想いが識を通して具現化してしまった、幽霊や地縛霊などですね。こういうのであれば、簡単に倒せます」
塩を撒いたり、数珠を巻いたり、それっぽいことをせずとも、弱い霊は勝手に消えるようだ。ここ数日の間に、咥え煙草の吉田から世間話みたいな軽い感じで教えてもらった。
「でも、あの藁人形の場合は違います」
日々木は無表情で言った。
「ああいう異形めいた識上というのは、個人の意識ではなく、集団の共通認識を核にします。神話やいわくなどがそうです。たった一人の想念から生まれる幽霊なんかと比べれば、織られる識の密度が違いますよ」
場所も良くない、と彼女は更に続けた。
「ここがハイテクな先進都市であれば、妖怪じみた識上なんて放っといても弱体化しますが、生憎甘倉は現代っ子より、昔の風俗に囚われたお年寄りの多い土地ですからね。そういう場所だと、祟りだとか迷信だとか、およそ科学の通用しない理の上に立つ識上は、活性化します。デバフどころかバフがかかります。伊国さんだけじゃ、逆立ちしたって勝てません。何故なら伊国さんはカポエイラを履修してないので」
「逆立ちしても勝てないというのは、戦法の話じゃない気がしますけど」
「む。口答えする気ですか。弟子の分際で生意気です。ここが公衆の面前でなければ、小指を切り落とすところです」
(ペナルティーが堅気のそれじゃない)
出会ってから、約二週間。久義はいつの間にか、日々木の弟子ということで落ち着いていた。年下の少女に、自分のような巨漢が戦闘面で弟子入りするというのもおかしな話だと思うが、実力面では圧倒的に彼女が格上なので仕方がない。
吉田曰く「日々木さんは今までずっと下っ端術士だったから、初めて弟子が出来てはしゃいでるみたい」とのことである。もっとも、弟子というよりは舎弟、舎弟というよりはサンドバッグという感じがしないでもないのだが。
「あの識上は強い」
日々木は無表情のまま、言った。
「物心ついてからここまで、延々鍛えてきた私でも手を焼くぐらいには、強いです。そんな個体に、まだ自分の術識すら完全にコントロールできていない伊国さんが勝つなんて、ちゃんちゃらおかしいです」
「いや、まあ、そうなんですが」
分かっている。自分一人では、あの藁人形に到底歯が立たないことぐらい。だとしても、あの異形は一刻も早く倒さねばならないのだ。
そうしなければ、匡が害されてしまうかもしれないのだから。
「……ありますか? 藁人形の気配」
「ありませんよ。あったら、とっくのとうに人払いの術識を使ってます。あの日みたいに」
日々木は無表情のままで言った。
あの日。つまり、彼女が箱内病院の屋上から飛び降りた日。
ここに、藁人形がいた。
彼女はそれと戦い、倒せはせずとも、何とか退けたのだという。
ただ、かなり深いダメージを負ったらしく、その回復に生命力の大半を費やしてしまったそうだ。
そして、足元がふらついて、地上八階から落ちた。
辛うじて空中で識を織り、静止することで衝撃を殺し、体勢を立て直そうと回転した。
そうしたら、何故か下にいた一般人に踵落としを見舞った次第だ。
思い出しただけで脳天が痛むので、久義は気を紛らわせるように、尋ねた。
「あれから、ここに藁人形は来てるんですか。……病院とかに、識上は集まりやすいんですよね?」
識上は識の多い場所を好む。そこに来て、病院含む人の死が多い場所というのは、かなりの識が残留するらしい。だからあの日、藁人形は箱内病院を訪れたのだろうと、吉田から聞いた。
日々木は無表情のまま「いえ」と否定した。
「まだ、吉田さんからそういう話は聞いていませんね」
「そう、ですか。……じゃあ、まあ大丈夫なのかな……」
前回、日々木を箱内病院に派遣したのは吉田らしい。つまり、彼が藁人形の存在を感知したということだ。術士、もとい優れた識を持つ人は、識上に限らず術識の気配に敏感なのだという。
そんな吉田が何も言っていないならば、問題はないのだろう。
しかし、そうはいっても不安である。
(万が一、藁人形がまた箱内病院にやってきたら、匡が危険だし)
術識の発動には、生命力を消費する。それは、識上も同じことである。自律型の術識のようなこの存在も、活動のために生命力を消費するのだ。
周囲の生命体から、吸い上げる形で。
記憶に残る残らないにかかわらず、識上は存在するだけで、障るのである。
もしかしたら、匡が頻繁に体調を崩していたのも、それが理由だったのではないかと、今ならば思う。
「……識上は、匡みたいな一般人は、直接は襲わないんですよね? 念のため、確認しますけど」
「識上にとって、非術士は取っても取っても実をつける果物の樹みたいなものですからね。殺してしまえば生命力を掠め取れなくなると、奴らは理解しています。もっとも、術士みたく抵抗してくる輩に対しては、容赦なく襲いかかってきますが。宇主ヶ森でのように」
言葉に釣られるように、久義もウスグ森でのあれやこれやを思い出す。あの時、藁人形は自分から日々木を襲撃した。前回の戦闘で彼女を脅威と判断したらしい。識上は怪物であるが、人並みに知性があるのだという。もっとも、その思考や生態の全てが、解明されている訳ではないようだが。
「……早く、倒さないと」
久義は独り言のように呟く。あの藁人形がまだ存在しているならば、いつこの病院に舞い戻り、匡を害するか分からない。どうにかして、排除してしまいたかった。
「焦るのは結構ですがね」
そこで、日々木は立ち止まり、久義のほうを振り向いた。どんな形相も浮かんでいない表情で、こちらを見つめてくる。
「その逸る気持ちは、全て鍛錬に注いでください。実戦で前回みたいな無茶したら、半殺しにしますから。藁人形でなく、私が」
(いつも鍛錬で四分の三殺しぐらいにされてるから、どちらかと言えばマシだな)
口に出したら全殺しにされそうな言葉を心に浮かべつつ、それでも頷く。日々木の言葉はもっともだ。今の状態では、まだ戦力になれていない。日々木と二人がかりで藁人形に挑むとしても、足を引っ張る可能性が大いにある。
気を引き締めねばと、怖い目つきを一層鋭くする久義に、日々木は「まあ、でも」と続けた。
「そうはいっても、少しは戦えるようになってきたんじゃないですか。基礎体力も識の織り方も、それなりになってきたと思いますよ。……中学一年生ぐらいの時の私と、同レベルぐらいには」
「え!? ひ、日々木さんが俺を褒めるなんて……まさか、変なもの食べました? ウスグ森の湿ったどんぐりとか」
「むむ。それは私の消化力を軽んじているということですか? 喧嘩を売っているということですか?」
「そういう意味ではないので胸ぐらを掴むのは止めて下さい。あ、違うな。これ喉輪ですね。掴まれてるの胸ぐらじゃなく首ですね。やばい、人体の想定していない変声期が来ちゃう」
何とか解放され、ゲホゲホと咳きこむ久義を見下ろしつつ、日々木は何事もなかったかのように続けた。
「私は師匠ですからね。歩みがナメクジのように遅いとはいえ、成長している弟子にはご褒美をあげます。特別に、名前を授けてあげましょう」
「え、名前……? 俺、伊国久義という親から貰った大切な名前があるんですが……。あ、もしかしてリングネーム的なあれですか」
「違います、術識の名前です。身体強化や自己治癒みたいな、量産型の術識じゃないですよ。まだ伊国さんが欠片も物に出来ていない、炎熱系の術識の名前です」
それはつまり、必殺技の名前をつけてくれるみたいなことか。そんなことを思う久義に、日々木は淡々と言った。
「名前があれば、自分がこれからどんな術を使おうとしているのか、より強く認識できますからね。パフォーマンスを上げるためにも、術に名を付ける行為は必要なんです」
「……え、じゃあ術士本人が名付けたほうが良いんじゃないですか。人から貰った名前じゃあ愛着が湧かず、すぐ忘れるかも」
「口答えですか」
「尊敬するお師匠様から授かった名の術なら、一生涯大事にする自信があります」
久義の苦しいおべんちゃらに、日々木は無表情のままだったが、どことなく上機嫌に見えた。初めての弟子にはしゃいでいるというのは、どうやら本当らしい。
彼女は少しも考える素振りを見せず、まるで前々から準備していたかのように、間髪入れず言った。
「じゃあイグニッションにしましょう」
「……ちなみに、何と書いてそう読む感じですか」
「爆炎大暴れです。【爆炎大暴れ】で行きましょう」
「……ちょっと、考えさせてください」
予想以上のたわけた術名に頭痛がしてきたので、久義は一旦保留にした。【日々の造形】も中々のものだが、これは確実にそれ以下だ。漢字に横文字のルビを振る文化は、もしかすると滅ぼすべきかもしれない。
何だか、金輪際炎熱の術識なんて発動したくないと思えてきた、その時である。
「あれ、久義くんじゃん」
誰かに、呼ばれた。
聞きなれた声である。
振り返れば、黒い長髪を後ろ手に縛った、ポニーテールの女性が立っていた。
二十代後半ほどに見える、白衣を纏った美女だ。瑞々しい、陶器のような肌をしている。
しかし、久義は知っていた。彼女の年齢が吉田と同じく、四十代前半であることを。
何故なら、顔見知りだからだ。
幼馴染の母親で、顔馴染みの元妻なのだし。
「立方さん」
目の前の女性――箱内立方の名を呼べば、彼女はにこやかな顔で近づいてきた。
「やあやあ、今日も今日とてクマが濃いね久義くん。ちゃんと寝れてるのかい? おばさん、心配だぞ?」
明るく、気安く、さりとて鬱陶しくない空気感で、立方が喋る。この若さで大病院の長を務めているだけあり、華が半端ではない。人徳も湯水のように滲み出ている気がする。ヤニ臭さと加齢臭しか滲み出ない吉田とはえらい違いである。どうしてあんなおっさんと一度でも結婚したのだろうと、首を傾げてしまうほどだ。
「は、はあ。すいません」
首の後ろ側を擦りながら、久義はモニョモニョ言った。どうにも、昔からこの女性を前にすると、身が縮んでしまう。吉田と違って、侮れる要素が全くないからだろう。もっとも久義の知ってる限りで、気安く侮れる大人は吉田ぐらいなのだが。
そんな彼に、立方は快活に笑った。
「あはは、相変わらずだねえ久義くんは。まあ、寝不足ぐらいなら別に良いよ。年がら年中馬鹿みたいに煙草を吸うどこぞの馬鹿と比べたらねえ。あの馬鹿、どうせまだ煙草止めてないんでしょ?」
「す、すいません。一応、注意はしてるんですけど」
「んふふ、良いよ良いよ。三つ子の魂百まで。吉田くんはきっと死ぬまであのままさ。久義くんも二十歳になったからって、ニコチンやらアルコールやらにどっぷり漬かったら駄目だよ? 間違って体調なんか崩してごらんなさい。匡のやつ凄い凹むから」
「き、気を付けます……」
タジタジである。冷や汗を滲ませる久義に、立方は満足げに笑いつつ、「と・こ・ろ・で」と、傍にいる日々木に視線を向けた。
「久義くん、この可愛い子は誰かなあ? さっき、仲良さそうに話してたけど」
「な、仲良さそうでしたか?」
とてもそんな感じの会話ではなかったのだが。
否、遠目から見れば、喋りながら歩いている若い男女というのは、それだけで仲良く見えるのかもしれない。
しかし、それはそれだ。事実ではない。弁明しなければならない。少なくとも、ここで何も言わなければ、今この瞬間にも怖い雰囲気を膨らませている日々木に、あとで五分の四殺しにされる可能性がある。命が惜しかったので、久義は説明した。
「この人は、日々木さんです。俺の……えっと、大学の後輩」
流石に術士の師匠だとは説明できなかった。そんなことをしたら最後、院内の精神科をお勧めされてしまう。箱内の五百年の積み重ねを見せつけられてしまう。
立方は笑った。ニヤニヤ笑いである。
「えー、本当? そんなこと言って、本当は彼女さんとかじゃないの? アオハルが来たんじゃないのー?」
アオハルが来たというか、青タンが腫れるというか、ともかく彼女の想像するような甘酸っぱさは存在しないのだが、弁明したら弁明したで、妙な勘繰りをされてしまいそうだ。そもそも久義は痛くない脛が痛くなり、シロがクロになるぐらいには口下手である。
「あ、もしかしたらその頬の腫れって、日々木さんにやられたの? 痴話喧嘩でビンタでもされた?」
確かにこの頬の腫れは日々木によるものだが、悲しいかな、凶器に用いられたのはパーではなくグーである。
この会話の切り抜け方によっては、この後チョキを出される可能性もある。冷や汗をかきながら、首を横に振る。
「そ、そんなんじゃないですって」
「えー? でも、ただの後輩と幼馴染の見舞いになんて来るー?」
「仮に恋人だったとしても、来ないと思いますけど……」
ちなみに日々木が見舞いについてきた理由は、見回りのためだ。万が一、藁人形が吉田に感づかれることなく紛れ込んでいないよう、定期的に病院を訪れているのである。
「ふむふむ、久義くんの初心そうな反応を見るに、本当に彼女ではないようだね。ま、それなら良いや。うちの匡も枕を高くして寝られるよ」
「あ、いや。その、俺は匡ともそういう関係じゃあ……」
困ったことに、この女性は久義と匡の仲を茶化す傾向にある。年頃の娘と、その幼馴染の関係を囃し立てるというのは、母親としてどうなのだろうか。そんなことを思うのだが、しかし毛嫌いされるよりはマシだと、その度に自分に言い聞かせている。久義は強くものを言えない性質である。
「そうかなあ? 少なくとも匡は、君と会えない日はこの町の空よりドンヨリしてるけど――」
「適当なこと言わないで、母さん。久義、困ってるじゃん」
澄み切った声が、聞こえた。
どきんと心臓が跳ね上がり、しかし、どうしてドキドキする必要があるのかと、溜め息を吐き、そちらを見る。
うなじを隠すぐらいの長さの黒髪。
母譲りの陶器のような白い肌。
精巧な人形のように整った顔立ち。
百五十センチに届かない小柄な少女。
「よっ。お見舞いご苦労」
箱内匡が苦笑いを浮かべ、そう言った。
やってやんぞ。