伊国久義は識を識る
やってやんぞ。
久義が目覚めて最初に見たものは、しみったれた竿縁天井と、しみったれた中年男性だった。
「丈夫だねえ、君は」
診察室からわざわざ持ち込んだであろう、上等な椅子に腰かけながら、吉田は煙草を吹かしていた。
「ここについたときは、人だか薪だか分からないような有様だったのに」
ぼんやりと、思い出す。焦げる藁の匂い。燃える自分の姿。やはりというべきか、あれは悪い夢ではなく。もっと悪い現実だったらしい。吉田の疲れた瞳に映る己は、包帯グルグル巻きのミイラのようになっていた。アニメや漫画ではよく見る表現だが、まさか現実で、それも自分がその姿になるとは思わなかった。
「火傷の痕は残らないから、心配しなくていい。そういう処置をしたから」
煙を吐きながら、医者が言う。視線は久義ではなく、手元のオカルト雑誌に向いていた。あまり誠実な看病の態度とはいえないが、こうしてこの場にいるだけでも、普段の吉田を考えれば驚天動地の手厚さだった。
掌を開き、閉じる。動いた。続けて、上体をゆっくり起こす。鈍い痛みが走ったが、こちらも動いた。藁人形にメタメタにされたことを考えれば、目を見張る回復ぶりだ。
藁人形。
そうだ、自分はあの異形に戦いを挑み、焼けたのだ。
では、何のために立ち向かったのだったか。
「吉田さん」
声を発する。掠れてはいたが、しかし、問題なく喋れた。
「日々木さんは」
吉田は何も言わず、親指で隣を示した。病室にある、もう一台のベッド。そこに、日々木は横たわっていた。目を閉じているが、毛布に隠された胸のあたりが、ゆっくりと上下している。生きているらしかった。
額からの流血は、既に止まっている。
久義は、安堵のため息を吐いた。
「情けは人の為ならずとは、よく言ったもんだ」
オカルト雑誌を読みながら、吉田が言う。
「その子はね、黒煙を上げる君を背負って、ここまで走ってきたんだぜ。なんか、いつぞやとは全く逆の構図だったんで、てっきり君ら二人が示し合わせたのかと思ったよ」
「日々木さんが……俺を」
「彼女から聞いたんだがね。何でも、君は術識も満足に使えないくせに、識上に立ち向かったんだって? 随分と青いことをするじゃないか。娘の幼馴染が無鉄砲だと知って、私は何だか複雑な気分だよ」
プカプカと白い煙を吐く吉田に、久義は目を丸くした。包帯の下で、まだ完治していない顔の皮膚が小さく裂け、ちょっと痛かった。
昨日のことを思い出す。『術識』に『術士』。日々木が発したこれらの単語を、この男は「彼女は混乱してるんだろう」と、片付けたのではなかったか。それなのに、今の彼は昨日の彼女が紡いだ謎のワードを、さも当たり前のように口にしている。
シキガミという、新たな言葉まで。
「……吉田さん……どこまで知ってるんです?」
「……ま、全部だよ」
ゆっくりと雑誌を閉じると、彼は久義に視線を向けた。その表情は、やはり久義の見知った怠そうな中年男性のそれだった。
「君が見た不思議なもの。巨大な藁人形、空中で静止する少女、体から噴き上がった炎。その全てについて、私は知っている。……正確には、それらの共通点についてだけど」
「共通点、ですか?」
吉田はゆっくり立ち上がると、病室から出ていった。数分後、彼は麦茶の入ったペットボトルを持って、戻ってきた。
「とりあえずは水分補給だ。種も仕掛けもない麦茶だけが、癒してくれる渇きもある」
久義はもう一度掌を開閉して、五指が問題なく動くことを確認してから、恐る恐る受け取った。何だかいつもより、少し重いようだ。包帯が滑り止めになったおかげで、キャップは簡単に外れた。口に付け、呑む。深い麦の香りが、冷たく食道に染み込んでいった。あっという間に五百ミリが空になった時、ようやく久義は自分の喉がとても渇いていることに気付いた。
「この世界には、様々な現象がある。引力。慣性。エントロピーなどなど。世間一般に広く知られているもの、知られてはいないが物理化学で解明されているもの、まだ解明されていないものなど、様々にね」
吉田はペットボトルを受け取りながら、言った。
「『識』もまた、そうした現象の一つさ」
「……識?」
久義は首を傾げた。毛布の下でまた皮膚が裂けて痛かった。しばらく安静にしていようと思った。
「簡単に言えば、『空想を現実に変える力場』みたいなもんさ」
吉田が何でもないように、とんでもないことを言う。平時であれば正気を疑うところだが、既に久義はいくつもの正気でない体験をしている。自分の理解の外に、二十年間蓄積してきた常識では解きほぐせないものが、確かに存在するのだと、肌で感じていた。
「具体的には、そうだな。キリスト教的世界観を持っている――あるいは囚われている――人間が、この力場を通せば実際に奇跡を体験できる、とかね。それが『識』だ。識は、この世にはいたるところに敷き詰められている。あ、駄洒落じゃないよ。そこまで中年男性を謳歌してる訳じゃないからね、私は」
中年男性を謳歌するというのがどういう意味かは脇にどけておいて、久義はひとまず尋ねた。
「その……識、ですか。識を使えば、空想が現実になるんですよね? それって、たとえば俺がこの瞬間、空を飛びたいって思ったら、羽が生えて飛べるってことですか?」
「まさか。そんなことできる訳ないだろう。馬鹿じゃないか君は」
人は悪意のない問いに対してここまで辛辣な物言いができるものなのか。久義は目の前の医者のような男が社会人のマジョリティーでないことを祈った。そんな彼に、吉田はいつも通りマナーの悪いことこの上ない咥え煙草で、言った。
「空想と言っても、その場の思い付きがそっくりそのまま現実になる訳じゃない。気になるあの子が突然惚れてくれる訳じゃないし、特撮に出てくるようなヒーローに変身できるわけでもない。識を通して、空想が現実に現れるためには、条件があるんだ」
吉田は人差し指をピンと立てた。
「久義くん。君は、人間が翼を生やして空を飛べると思うかい?」
「え? ……いや、思わないです」
「じゃあ駄目だ。よくもまあそんな体たらくで空が飛べると思ったね。君は大人しく飛行機か気球か筋斗雲にでも乗っておきなさい」
この包帯が全てゴム製だったら、この医者にゴムパッチンの一つや二つかましてやりたい。久義はそんなことを思ったが、実際には包帯は布製だったので、諦めた。
「信ずるものしか救われないのさ。識じゃなく、空想を――自分にとっての世界観をね」
吉田は煙草をふかしながら、当たり前のように言った。
「カルト宗教の方便でもいい。似非科学の理屈でもいい。経験則からなる強烈な誤解だって構わない。とにもかくにも、人が翼を生やせるという確固たる自信さえ持ってれば、識は応えてくれる。そうじゃなければ、天地がひっくり返っても無理だね。まだライト兄弟か、イカロスの後追いをした方が生産的だ」
久義は、それでもやはり納得がいかなかった。
「で、でも……吉田さん。もしも吉田さんの言ってることが正しいとして、それならこの世には一定数、羽の生えた人がいてもおかしくないんじゃないですか。例えば……物事の道理をよく分かってない子どもなんかは、簡単に『自分は飛べる』って信じ込んじゃうんじゃ」
「おお。久義くんにしては良い目の付け所だね。しかし、残念ながら答えはノーだ。何故なら、識にも強弱があるからさ」
強弱。
その言葉の意味を、自分なりに想像してみる。識とは、空想を現実に変える力場だという。それに強い弱いがあるとするならば。
「……識が強くなければ、どれだけ頑なに信じていても、想いが現実に作用することはないということですか」
「プラシーボ効果とかを別にするなら、まあ、概ねそんなところだね。理解が早くて助かるよ。脳細胞が焼けて灰色になったのかい?」
医者の軽口を無視して、久義は尋ねた。
「識は……色んなところに……えーと、その」
「敷き詰められてる。久義くん。親父ギャグをそこまで厭わなくたっていいじゃないか。君だっていつかは私のように中年男性になるんだよ?」
「……識は、色んなところにあるんですよね。そして、強い識じゃないと、空想を具現化してくれない。……ってことは、日々木さんが空中で止まった箱内病院前とか、あの藁人形が降ってきたり、俺の身体が燃えたりしたウスグ森っていうのは、識が並外れて強い場所なんですか? パワースポット、みたいに」
吉田はゆるく煙を吐き出して、言った。
「確かに、土地に滞留する識が強くて、いわゆるパワースポットと呼ばれるようになった場所というのは、あるよ。でも、あの病院もあの森もそうじゃない。少なくとも、君らの術識を強化してくれるような識の土壌はない」
久義の中に疑問符が湧く。では、どうして数々の不思議なことは、起こったのだろうか。箱内病院も、ウスグ森も、パワースポットでないとしたならば、どの識が空想を引きずり出したのだろうか。
「私たちの識ですよ。私たちの術識を生み出したのは」
低い鈴のような声がした。
そちらを見れば、栗色の瞳と目が合った。
日々木が、久義を見つめていた。
彼女はゆっくりと上体を起こすと、吉田に顔を向けた。
「すみません、吉田さん。今回も、あの識上を倒すことはできませんでした」
「ま、仕方ないよ。準備して挑んだ前回すら、遅れを取ったんだ。森で不意打ちを喰らって、久義くんみたいな木偶の棒を庇いながら、二人揃って生還できただけでも御の字さ」
(で、木偶の棒……)
久義は、除夜の鐘のような重厚なガーンという響きを聞いた気がした。大いにショックを受けている彼をちらりと見て、吉田は少しばつの悪そうな顔をした。そして、久義に聞こえない程度に声を潜めて、言った。
「……ありがとう、日々木さん。私の友人を助けてくれて」
「殊勝な言葉すらヤニ臭いですね。吉田さん、禁煙した方が良いですよ」
「……一応、私って君の上司なんだけど」
魂のように白い煙を吐く吉田を無視して、日々木は久義のほうを見た。
「伊国さん。識とは、人の裡に生じるものです。世界に行き渡っている識も、元は人の中にあったものが、様々な要因で残留したにすぎません」
彼女はいつものように、どんな表情も浮かべていない綺麗な顔で、言った。
「世界はただ在るだけです。人が自分勝手に意味を見出さない限り」
見出した意味を現実に変える。
それが識だと、日々木は続けた。
「識は、生きとし生けるもの誰もが持っています。ただし、いわゆる一般人の識はかなり微弱です。空想を現実に変える力はありません。まあ、中には晴れ男だとか雨男だとか、知らず知らずのうちに、識を通して思い込みを達成する人もいますがね」
「……でも、日々木さんは」
「ええ。私は、空中で静止しました。晴れ男や雨男といった、偶然の延長のような現象ではありません。私は自分の意思で識を織り、術に変え、現実に干渉した。それが出来る人種だからです。つまり」
「……『術士』ですか」
「話が早くて助かります。案外、貴方は賢いのですね。術識も使えないくせに、あの怪物に立ち向かっているところを見た時は、度し難い阿呆だと思いましたが」
(あ、阿呆……)
またしても、ガーンという鐘のような響きが聞こえた気がした。願わくば、年末よろしく百八回聞く羽目にならねば良いのだが。久義はこう見えて繊細なのである。
日々木はショックを受けている久義に、申し訳なさそうな顔をするでもなく、続けた。
「私たち術士は、自分の抱える識に合った空想を練り上げ、術に変えます。これを『術識』と言います。術士によっては魔術だの法術だの道術だの、奇跡だ神威だの霊験だのと、色々な呼び方をしますがね」
そこまで話してから、日々木は少し口を閉じた。じっと、久義の身体を見る。巻かれている包帯を、視線でなぞるように。
「……貴方から噴き出た炎も、術識です。前々から言っていたように、高い体温だって術識によるものです。……まずは、それを自覚してください。そうしなければ、今回のように自らを焼くことになります。……焼身自殺をするなら、今度からは私の見えないところでやってください」
久義は、そこで気付いた。日々木は凍り付いたような無表情であったが、瞳に関してだけは違った。
栗色の眼に映った世界は、少しばかり、揺らいでいた。
「……吉田さんの薬がなければ、貴方は死んでいました。私を藁人形から助けようと身を挺した貴方は、死んでいました。弱いくせに、自分の命も顧みずに、わが身を薪にしてまで私を助けようとしてくれた貴方は……死んでいましたっ! その意味を! それが……どれだけの十字架を私に植え付けるか、ちゃんと、理解してください……!」
そこで、日々木は久義から視線を外し、そっぽを向いた。吉田は居心地悪そうに頬を掻き、そこに咥え煙草の灰が落ちて火傷していた。「熱っ!」と柄にもない間抜けな声を出していた。娘と同じぐらいの少女が見せる激情に、戸惑っているようだった。
初めて見る日々木の人間らしさと、いつも見ている吉田の駄目人間らしさが、妙に胸に染みて、安心した。
安心したので、自然と笑みが零れてしまった。
グルンと、凄まじい勢いで日々木がこちらを向いた。
青筋を浮かべて、憤怒の表情を拵えていた。
「今、笑いましたか……!?」
「へっ!? あ、いや! ちょ、ちょっと吉田さんがいつにも増して駄目人間めいてたから、安心しちゃって……」
「ふむ、私の駄目人間ぶりには需要があるのか。レンタル足を引っ張る人でも始めようかな」
日々木の脚が掛布団をふっとばし、そのまま吉田を蹴飛ばした。ガマガエルのような声を発しながら、中年男性が冗談みたいな勢いで床に転がっていた。少なくとも彼女は、完全に回復しているようだ。
ぎろりと、栗色の瞳が久義を映す。視線だけで万物を穿ちそうな目力だった。鬼気迫るとはこのことだ。冷や汗をダラダラ流しながら、久義は思った。あんな大火傷を負ったあとでも、汗腺は機能しているらしい。包帯姿であれど、火のついた刀を振り回しての国盗りはできそうもない。そんな阿呆みたいな考えが延々浮かんできた。つまるところが、現実逃避である。
「……貴方は現段階で、術識を行使できるぐらいの、識の強さを秘めています。だからこそ、かえって危険です。それが暴走したら、命を落としてしまいますから」
でも、安心してくださいと、日々木は言った。淡々と、クールな無表情で言った。
しかし、久義はもう何となく分かっていた。
「伊国さんが、自分の力を簡単にコントロールできるよう、私が鍛えてあげます。火がついても、垂れ流しになった涙やら涎やら血やらで一瞬で消えるぐらい、扱きに扱きますので、覚悟してください……!」
この少女は一見クールに見えるが、その実かなりの蛮族であることを。
(……結構、面白い子だな。この子)
冷や汗で包帯を湿らせつつ、そんなことを思った。
「返事がない」と音高くビンタされるのは、それから数秒後のことであった。
やってやんぞ。