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術士達は識を織る  作者: 下月 巴
4/9

これが業火というならば

 やってやんぞ。




 甘倉には山や田んぼといった緑が、それはもうお呼びでないぐらい沢山あるが、そのうち最も大きな面積を占めるのがウスグ森である。正式名称は『宇主ヶ森(うすがもり)』というのだが、樹冠の広い大木が生い茂っているせいで春夏秋冬薄暗いことから、ずっと渾名で呼ばれている。

 カラオケボックスの代わりにドラッグストアが、ゲームセンターの代わりにもやはりドラッグストアが建つ甘倉である。娯楽の痩せた土地に生きるわんぱく坊主たちの遊び場は、もっぱらこの森だ。友達が少なかった幼少期の久義ですら、匡に連れまわされる形で、毎日のように薄い日陰の下を探検していた。

 それから十年が経った現在、久義はあの日と変わらず暗いウスグ森を、何も言わず歩いていた。心の中で、頭を抱えながらだ。何せ、危険人物が同行しているのだから。

 久義は斜め前方を歩く日々木を見ながら、静かに溜息を吐いた。


(言わなきゃよかったなぁ、あんなこと)


 あんなこと。すなわち、日々木が八階建ての屋上から落ちて、地面にぶつかる直前に一瞬ピタリと止まったこと。

 十中八九、手品で使うワイヤーなどの仕掛けによって減速したのが、空中で静止したように見えただけだと思っていた。

 そうじゃなければ、やはり目の錯覚なのだ。どちらに転んでも、不思議とは程遠いカラクリがあるはずなのだ。

 そんなことを考えながら、世間話の延長のような口ぶりで、尋ねたのだ。

 日々木は、答えなかった。ただ、ネット上に転がる怖い話などでよく見る台詞を、冷たい無表情で口にしただけだ。


「見たんですか」


 その結果が、ウスグ森への連行である。

 大事な話があるので、ついてこいと言われた。正直なところ、久義はその瞬間、日々木にそこはかとない得体の知れなさを感じたから、首を横に振りたかった。というより、実際に振った。「いや、ちょっとこれから友達の見舞いが」と弁明までした。

 それでも、日々木の無表情にどんどん怖い空気が立ち込めるのを感じて、トボトボと付いてきた次第である。久義はどちらかといえば無言の圧力に屈するタイプだった。

 箱内病院からウスグ森までは約一キロほど。カラフルな街並みを通り過ぎ、田園風景を追い抜いて、木漏れ日まで湿っていそうな薄暗い森に辿り着くまで、日々木は何も言わなかった。まるで背後に久義などいないかのように。もしかしたら本当に忘れられているかもと、何度か立ち止まって逃げようとしたが、その度に日々木は振り返って、ジッと見つめてきたので――その度に無表情の裏の怖いものが膨らんでいるようだったので――三回失敗してからは大人しく追従した。彼女は恐らくだるまさんが転んだのプロなのだろうと思った。

 周囲に目をやる。雨と陰のダブルパンチで、一年を通して乾くことのない土。日光を食い荒らす大木の数々。時たま鈍い風が吹いて、ざわざわと濡れた匂いを運んでくる。

 甘いような苦いような匂いの動きと、速度を合わせるように進んでいた日々木が、立ち止まった。


「ここで話しましょう」


「……ここでって」


 人の喧騒どころか、鳥や獣の足音すらしない。どんな生活音とも被らない洞にいるような静寂。こんなところで、一体どんな話をするつもりなのか。


「伊国さん。貴方、見たんですね? 私が、術識を使う様子を」


 術識。

 その単語は昨日も聞いた。彼女が吉田病院で発した言葉だ。


「……日々木さん、あの」


「何ですか」


「……やっぱり、まだ落ちた時のショックが抜けてないんじゃ」


 ごすっ、と脛を蹴られた。何の迷いもなくだ。彼女の履くスニーカーの爪先が突き刺さり、かなり痛かった。

 いや、痛いとかそういうことよりも。


「な、な、な、何するんですか!? 突然、人を蹴るだなんて!?」


「腹が立ったからです。それに、やっぱり最初に機動力を封じたほうが良いかと思って」


(感情任せの凶行かと思ったらサラッと不穏な計画性が見え隠れしててすこぶる怖い)


 やはり、この子は紛うことなき危険人物だ。彼女に独りで対応していた吉田の安否が気になるところだ。

 とにもかくにも、このままではとんでもないことに巻き込まれそうな気がする。久義は回れ右して、脱兎のごとく逃げ出そうとした。

 軸足が浮いた。日々木に払われたのだ。途端に体が重力を失い、顔から腐葉土に着地した。カブトムシの幼虫の気分になった。


「逃がしません。貴方は知りすぎた」


 まるで映画の悪役のような台詞を吐きつつ、日々木が馬乗りになった。背にまたがって間髪おかず、左腕を絞り上げられる。


「い、痛い痛い痛い!! ごめんなさいごめんなさい!! 殺さないで! あるいは優しく殺してぇ!!」


「ふむ、無抵抗なのはいい心がけですね」


 感心したように言いながら、しかし日々木は拘束を解かない。無抵抗な人間への暴行を是とするタイプらしい。一刻も早く然るべき報いを受けるべきではなかろうか。

 久義はそんなことを思いつつ、しかし口にしたら関節をねじ砕かれそうだったので、黙っていた。


「一応、聞いておきますが」


 冷めた口調で、日々木が言った。


「伊国さん。貴方は、本当に術士ではないんですね?」


「あ、当たり前じゃないですか! 術識とか術士とか、全然わかりません!」


「では、この高い体温は何です?」


 日々木が、久義の首に触れる。頸動脈をなぞるようにだ。その指先が、久義の高い体温を吸って、ぬるくなるのが分かった。


「も、物心ついた時からそんな感じなんです! 平熱が三十七度超えてるんですよ、俺! 何でかは、知らないけど!」


「なるほど、つまり術識を使っている自覚はないということですね」


「だ、だから何なんですか! その、術識って!」


 日々木は質問に答えなかった。無言で喉仏のあたりをまさぐっている。そのまま掻き切られるのではないかと怖くなった。

 それにしても、一体何が目的なのだろう。


「あ、あのあの! な、何でこんなことするんですか!? お、俺お金とか持ってないんですけど!」


「む。カツアゲのように扱われるのは心外です。大体、私が貴方から取り上げたいのはお金ではなく、記憶です」


「えぇ!? 何言って——」


 もがきながら呻いた、その時である。チッ、と舌打ちが聞こえた。もちろん、今この場には久義と日々木しかいない。舌打ちを千回はしたくなるほど理不尽な状況に追いやられているのは久義だったが、そんなことをすれば左腕とお別れする羽目になりそうなので不可能だった。ということはつまり、舌を鳴らしたのは日々木のほうだ。他人を組み敷いておいて、何がそんなに不満なのか。

 人面獣心とはこのことだ。そう思って——。


「冷たっ!?」


 突然首に生じた氷のような感触に、久義は悲鳴を上げた。


「叫ばないでください。うるさいです」


「いや恒温動物は皆同じ反応しますよ! ちょ、何ですか首に当ててるやつ!? 冷たいです! 怖いです!!」


「怖くないです」


(感情すら否定されるのはひょっとして人権問題では?)


 戦々恐々とする久義であったが、しかし首の冷たさに体温が馴染み始める頃、変化が起こった。


(あれ、何だ、これ。……心地いい?)


 それは単に、年がら年中熱に浮かされている体に、冷涼が染みわたっているからではなかった。もっと大きな心地よさだ。痛みや恐怖で張りつめているはずの神経が、水にでも溶けそうなくらい緩んでいくのである。覚えている訳ではないが、羊水に浸かっていた頃は、四六時中こんな感じだったのではないか。そう思うほど、深く、リラックスしていた。

 呼吸が寝息のように凪ぐのが分かった。意識が、感覚が、遠のいていく。ざわざわと、ウスグ森と風の戯れが響いてくる。


「伊国さん」


 蕩けそうな意識に、日々木の言葉が滴のように落ちる。低い鈴のような声が、何だかとても心地よくて、安心感が波紋を広げていく。


「貴方が私と出会ったのは、箱内病院でしたね」


 久義は目を細める。ゆっくりと、頷く。何も考えられなかった。ただ、彼女の言葉が事実なので、肯定した。それだけだった。


「箱内病院の……正面玄関。そこから出てくる私と、貴方は出会ったんですよね」


 はて、と曖昧な疑問符が浮かぶ。確かに、自分は箱内病院の前で、日々木と出会ったように思う。しかし、彼女は玄関から出てきたのだったか。もっと、別の形で彼女はやってきたのではなかったか。別の形で自分達は出会ったのではなかったか。

 では、どのように?

 分からなかった。違和感があるように思うのだが、それの正体を見極めようとすると、途端に何も考えられなくなる。遠くのものを眺めて、輪郭を見定めようとした瞬間に、視界が滲むような。


「そこで、私たちは出会ったんですよ。伊国さん。貴方と私はそこで出会い、その翌日も相まみえて、今こうしてここにいる。確か——そうですね、宇主ヶ森の案内を、貴方がしてくれると言ったんですよね」


 そうなのだろうか。

 あまり、覚えていない。

 因果が曖昧だった。

 だからこそ、日々木のいう今までの流れが、嘘か本当か分からなかった。

 そう言われてみれば、そうだったような。

 彼女の言葉に引っ張られて、不定形の記憶が輪郭を帯びていくような感じがする。

 ああ、確かに。


「そう……でしたか」


「そうです」


 日々木は何でもないようにそう言った。

 ならば、そうなのだろう。

 久義は、そう思って——。

 瞬間、影に包まれた。


(何だ)


 反射的に泡のような疑問が湧く。

 それと同時に、脇腹を蹴り転がされた。


「がはぁ!?」


 久義は不細工な声を上げた。心地よい夢からたたき起こされた時のような、拭いがたい苦痛が胸に蹲っていた。それに引っ張られるようにして、現実の記憶がよみがえった。そうだ、自分は日々木に組み敷かれていたのだった。あの屋上から降ってきたやばい少女に。

 そこで、気付く。今の自分は、上に誰も乗っていないことに。左腕も自由になっていることに。


(か、解放された?)


 まだ少しフワフワしている頭を動かし、周囲を見回す。近くにまだ天敵——つまるところが、あの亜麻色のウェーブ髪の怖い美少女——がいるかどうか、確認したかった。

 結論からいうと、いた。それも、とても近くに。久義と数メートルも離れていないところに。

 彼女は、何かを持っていた。透明な二等辺三角形に、柄をつけたような刃。。

 それを、順手に構えていた。


「伊国さん」


 日々木が言う。

 かすれた声で。まるで、意識が朦朧としているかのような声で。


「逃げてください」


 額から、血を流しながら。


(何だ、これは)


 異常だ。流血は、それも頭部からの流血は、そう頻繁に起こるものではない。だから、ダラダラと血を流す日々木に対して、久義は驚愕するはずであった。

 普段であれば。

 日々木の前に、巨大な影が立っていなければ、流血が意識の外に放り出されることはなかったのだ。

 体長は約三メートル。

 四肢を持ち、二本足で立っている。

 獣ではない。

 全身がけば立っているが、それは体毛によるものではなかった。それが何なのか、久義にはすぐ分かった。


(藁人形だ)


 藁で編まれた、巨人。ヒグマのような大きさの藁人形。それが、日々木の前に立っていた。

 一瞬前の、影を思い出す。突如として視界に被さった暗がり。あれは、この巨体が生んだものなのか。

 がさりと、藁人形が動く。

 着ぐるみ。ロボット。色んな可能性が脳裏に浮かんでは消える。これは一体何なのだろう。どこから来たのだろう。

 何をするために、来たのだろう。

 心臓が、痛いほど脈動していた。


(嫌だ。藁人形は、嫌だ)


 条件反射のような忌避感が、脳味噌に繁茂する。久義は、あの造形が嫌いだった。材質が嫌いだった。全てが嫌いだった。

 藁人形は、あの夜の丑の刻参りを想起させる。

 だくだくと、汗が迸る。その傍から、煙を上げて蒸発していくような気がした。体温が上がっていた。どんどん、上がっていた。


(気分が、悪い。すごく)


 吐きそうだった。まるで熱病にでもかかったように、意識が混濁し始めた。先ほど、日々木に組み伏せられていた時とは全く違う、不快感を伴う混濁だった。

 滲む視界の中で、藁人形が動く。

 ゆっくりと、太い右腕を上げて——。


 ドンッ!


 打撃音ではなかった。そんなちゃちな形容はできなかった。

 言い表すならば、衝突音。重く、大きく、鈍い音が、鼓膜を叩いた。

 まるで体重がなくなってしまったかのように、日々木の身体がふわりと浮いて、背後にある大木に叩きつけられた。

 葉っぱが散る。

 少女の口から、血飛沫が噴き散らかされる。

 舞い散る影と共に、日々木はもたれかかるように、地面に落ちた。糸の切れたマリオネットのようだった。

 気を失ってしまったらしい。刃だけ、握りしめながら。


「……日々木、さん」


 久義は夢でも見てるのだと思った。しかし、少女の口端から漏れる血の赤さも、漂ってくる藁の匂いも、全てがこの上なくリアルだった。心臓が破裂するほど蠢き、冷や汗が止めどなく迸り、世界がやけにくっきりと見えた。恐怖が生存本能にまで達したのか、意識がやけに澄んでいた。

 だから、余計なことを考えた。

 藁人形が、立っている場所。

 そこは、今まで自分が倒れていた場所だ。

 意識が不明瞭だった時、久義は誰かに蹴り飛ばされた。少なくとも、藁人形にではない。あの膂力で蹴られれば、きっともう死んでいる。


 であれば、誰が蹴ったのか。


 誰が蹴って、あの藁人形から離してくれたのか。


 日々木は、「逃げろ」と言っていた。


 少女を見る。微かに呼気を漏らしている。生きている。だが、額からは夥しい量の血が流れている。

 藁人形に殴られたのだ。いつ? 影が降ってきた時か?

 下にいる自分を、庇ったのだろうか。

 もしも庇わず、そのまま自分を藁人形の下敷きにして、脱兎の如く逃げていれば、あんな重傷は負わずに済んでいたのではないか。


 全ては、久義の想像だ。


 しかし、久義は想像を一生引きずるような男だった。


 幼馴染を自分の丑の刻参りのせいで、何年も病院に閉じ込めてしまったのだと、心の片隅で信じ続けている様に。

 日々木歌子が自分を助けてくれたという想像は、それよりも随分と現実味があるように思えた。


 だとすれば、やらなければならないことがある。


 久義はゆっくりと、立ち上がった。


「……おい」


 藁人形が緩慢な動きで、こちらを見た。否、見たかどうかは分からない。藁人形には目がなかった。鼻も、耳も、口もなかった。人型ではあるが、人を模してはいなかった。

 ドクドクと、心音が猛る。生理的嫌悪感が、根源的な恐怖が、膨らんでいく。それでも、ガチガチと鳴りそうになる歯を食いしばり、久義はジャンパーのポケットに手を突っ込んだ。

 キラリと、銀色の釘が顔を出した。


「俺が……相手だ」


 藁人形は何も言わない。口がないのだから当然だ。そもそもの顔がないから、表情も分からない。

 本当の意味の無表情で、藁人形は再び日々木の方を見て、歩き出した。

 ピシリ。

 空気が裂けた。何かが木漏れ日に煌めいた。

 再び、無貌がこちらを振り返る。その右腕が鈍く光っていた。

 釘が生えていた。

 久義は怖い顔で睨みながら、言った。


「指弾だ。……釘の扱いは、慣れてる。長い、付き合いだからな」


 呟きながら、久義はコイントスでもするように、釘の頭を親指で弾く。それは銀光の矢となり、藁製の膝に突き立った。左膝だ。


(浅い)


 ダンッ、と地面を蹴る。黒いジャンパーが木陰にはためき、弾丸のように距離を潰す。

 迎え撃つように、藁人形が右腕をアッパー気味に振り上げた。少女とはいえ、人間一人を吹き飛ばす威力を秘めた剛腕。顔を逸らし、ぎりぎりで避ける。藁が頬を掠め、摩擦で焦げ付くのを見送って——。

 左膝に、石の如き拳を叩き込む。鉄鎚のように、打ち込む。

 五寸とは言わないまでも、それなりの長さを誇る釘が、頭まで埋まった。


(人でもロボでも、この深さまで突き刺せたなら……!)


 機動力を奪えるはず。

 そこで、思考は白に染まった。

 釘の埋まった左膝が、そのまま久義の顔をかち上げた。


「がっ……!」


 衝撃。激痛。天地が逆さまになり、曇天を見下ろす。仰向けの口腔に、鉄の味が広がる。

 その全てが、脳の振動に溶けていく。

 しかし、気絶するわけにはいかなかった。

 体が熱かった。こめかみに血管が浮きあがり、頭蓋骨の一切合切が焔になってしまったような。

 自分が、巨大な蝋燭になったような感覚。脳味噌から垂れた灼熱が全身に流動し、語り掛ける。


(ここで寝たら死ぬぞ。俺も、俺なんかを助けた日々木さんも)


 体を捩り、這いつくばる。グラグラと揺れ、立ち上がる。藁人形は、まだ日々木の方へと歩いていく。


「ま、てよ……」


 縋りつくように、ガサガサした藁の膝を抱えた。

 巨人は何も言わない。どんな表情を浮かべることもなく、淡々と脚を振る。近くの大木に叩きつけられる。地面に叩きつけられる。その度に衝撃の奔流が五臓を蝕み、酸っぱい血が込み上げるが、それでも久義は離さない。

 体がぼんやりと、熱くなるのを感じる。

 藁の匂いが鼻を突く。頭が熱い。釘の鉄臭さもほんのり香る。視界がゆっくりと暮れていく。

 あの夜が過る。

 丑の刻参りの夜。

 久義の胸にわだかまる罪悪感の根源。

 それが戒めるのだ。

 ここで日々木を助けられなかったら、自分はもっと大きな罪を背負うことになると。

 体が何度も叩きつけられる。その度に、炎熱が弾けて増していく。

 意識の輪郭が、揺らぐ。


(熱いな。何か、ずっと熱いんだ。いつからだっけ)


 それでもなお、離さない。脳が揺れるほどに、力が強く込められていく。


(まあ、いいか。この熱は、多分、罰なんだろうし)


 まるで、業火だ。

 図体が大きくなっても、少女一人守ることができない無能を焚殺する、罰の火。


(でも、業火だというんなら、ちゃんと罪の全部を、焼いてくれよ)


 力が籠る。

 熱が満ちる。


(俺も、釘も、鉄鎚も。……この、藁人形だって)


 一際、大きな衝撃。

 大木に罅が入るほど、強く、叩きつけられた。

 骨が砕ける音がした。皮が破ける音がした。

 意識の輪郭が、揺らぐ。

 まるで、炎のように。


「伊国さんっ!」


 遠くで日々木の声が聞こえた。しかし、実際に見てみると目と鼻の先だった。意識が戻ったらしい。


(良かった。これで、あの人は逃げられる)


 逃げろ。そう言おうと思った。だが、舌が上手く回らない。舌だけではない。体中に、力の入らない箇所が生まれていた。


(ああ、死ぬのか)


 ぼんやりと、思う。

 体が熱い。

 灼けるようだ。そう、考えて——。

 藁人形から、煙が上がっているのが見えた。

 赤々と、燃えていた。

 ザクッ! と繊維の束を穿つ音が響いた。

 日々木の持っていた透明な刃が、人形の頭を貫いていた。


(ああ、これなら、もう)


 久義は安堵した。それと同時に、全身から血から抜けて、ボロ雑巾のように地に伏した。

 眼球も上手く動かない。ウスグ森の濡れた腐葉土が、視界の大半を占め、その片隅を藁人形が歩く。

 逃げるのだろうだと、ぼんやりと思う。

 まだ動けるのかと、ぼんやりと思う。

 そして、何も思えなくなる。


「伊国さんっ!」


 日々木の声が聞こえてきた。彼女が何かを叫んでいる。うまく聞こえない。

 体を抱き起される。視界いっぱいに、日々木の顔が映る。目が映る。

 彼女の瞳が、赤く燃えていた。

 気を失う間際に、理解した。

 日々木の眼が、燃えているのではない。そこに映るものが、燃えているだ。

 久義の掌から、紅蓮の炎が噴き上がっていた。 


(ああ、業火だ)


 そして、ウスグ森は闇に閉じた。

 


 やってやんぞ。

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