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術士達は識を織る  作者: 下月 巴
1/9

それはどうにも雨ではなくて

 やってやんぞ。




 甘倉あまぐら市は雨の多い町である。

 年がら年中の曇り空が、太古の昔より続いてきたらしく、町名も古くは『天暗』という字があてられていた。それが太古、とはいわないまでもそれなりに昔、天が暗いじゃ縁起が悪いということで、現在の字面に変えられたそうだ。

 春夏秋冬、それぞれの温度の水が降る町。それが甘倉だ。

 だからといって、まさか空から女の子が降ってくるだなんて、伊国いぐに久義ひさよしは思いもしなかったのである。




 久義は今日も今日とて、怖い顔を浮かべながら病院から出た。別に怒っている訳ではない。余命宣告を受けて絶望している訳でもない。ただ、生まれつきそういう顔なのである。

 いわゆる強面なのだ。眼光鋭い三白眼。その下に刻まれた翳りのような暗いクマ。天に向かって熾火のように揺らめく、黒く短く遊びのない縮毛。

 顔だけでなく、体つきも近寄りがたい。百九十センチに届きそうな高い背。そこに余すことなく絡み付いた分厚い筋肉。薄手の黒ジャンパーから覗く、傷だらけのごつごつした拳。やや猫背気味な姿勢も、何だか特撮に出てくる巨大怪獣を想起させる。

 数多の鉄火場を潜り抜けてきたような凄味を醸す彼であるが、実のところ二十歳を迎えたばかりの若人だ。別に鉄砲玉とか用心棒とか殺し屋とか、そんな血生臭い経歴など欠片もない、酒も煙草も悪い遊びも縁がない、実家暮らしの大学二年生である。

 そんな風体が怖いだけの青年が、どうして病院から出てきたのか。

 現在の体温が、三十七度四分あるからではない。彼の肌がやや赤く、熱っぽいのはいつものことだ。

 彼がここに来たのは、自らの発熱のためではない。

 幼馴染の見舞いのためだ。もっとも、今日は会えなかったが。


「……すくい


 幼馴染の名前を呟く。箱内はこうち匡とは物心ついた頃からの付き合いだ。五歳の時に体調を崩してしまい、以来ずっとここに入院している。即ち、彼女の母親が院長を務める箱内病院に。

 久義は毎日、大学が終わり次第匡の見舞いに行く。そして大体週に一回ぐらいのペースで、体調不良を理由に面会を断られる。病院スタッフも院長の一人娘のことだからか、看護師に限らず受付カウンターの職員ですら、当日の匡の調子を把握している。今日なんかは清掃員のおばさんが教えてくれた。何でも腹の調子が悪いようだ。


「差し入れが……いけなかったかな」


 昨日の見舞いに持っていったメロンパンを思い出す。親の仇のようにパールシュガーを入れた滅茶苦茶甘いパンだ。甘味処の多い甘倉でも、特に糖分に取りつかれたパン屋で購入した商品だった。匡の好物の一つだ。

 出来たてほやほや、外はサクサク中はフワフワの仕上がりで、彼女も美味しい美味しいと喜んでいたが、しかしそうは言っても病人である。匡の健康状態を考えれば、いくら本人の頼みといえど、心を鬼にして腹巻きや正露丸の類を持っていくべきだったか。


「ううむ。ううううむ。……クソ、俺は何て駄目な奴なんだ」


 久義は思い詰めたような表情を浮かべた。具体的には、次の瞬間枕に顔を埋めて足をバタバタさせるような表情。しかし、実際に彼の手に握られたのは枕ではなく、釘と小さな石板だった。『伊国久義』と彫られた石板である。

 いつもの悪癖だ。

 正確には悪癖に向けての準備だ。


「……待ってろ、匡。この落とし前は、しっかり付けるからよ」


 みょうちきりんなことをブツブツ呟き、彼は空を仰いだ。視線の先は、箱内病院の最上階。地上八階に位置する匡の病室を見つめたのだ。

 だから、気付いた。

 最上階よりさらに上に位置する、屋上。

 そこから、何かが飛んだ。


「……?」


 鳥か。飛行機か。否、スーパンマンか。

 ライムグリーンの大きな人魂が、揺らめきながら落下しているようだ。

 ぼんやりと考えていた久義は、次の瞬間、自分の鳥肌が針のように尖るのを感じた。

 落下物の正体が分かった。

 人だ。

 上着をはためかせながら、人が落下しているのだった。


「えぇ!? う、嘘嘘嘘!!」


 滅多なことでは大声を上げない根暗な久義も、この時ばかりは動揺で叫んだ。そうしている間にも、明るい緑の布で風を撫でつつ、何者かが地面目掛けて落ちている。それも、脳天から。

 地上八階の建物から、人間が落ちてきているのだ。そんなもの、底の深い特大トランポリンでも用意しなければ、絶対に受け止められない。生身の人間が漫画みたく抱き留めようとしたところで、仲良く骨を折ったり、仲良く大怪我したり、仲良く死ぬのが関の山だ。

 頭では分かっていても、久義は落下予測地点に猛ダッシュしていた。

 彼はそういう人間であった。


「ふんぎぃっ!!」


 久義は足も筋肉を纏う。そこから出せる限りの死力を振り絞り、アスファルトを駆ける。

 余分な思考をかなぐり捨てて、全身全霊で走るせいか、五感がやけに研ぎ澄まされていた。

 水の中にいるように、ゆっくりと落ちる人影。 

 ウェーブがかった亜麻色の髪、瑞々しい肌。


(女の子だ)


 肌を滑っていく四月のぬるい風。

 昨日の雨の残り香を醸す湿ったアスファルト。

 その中に、薄く藁の匂いを嗅ぎ取った時。


(間に合わない)


 伸ばした手と、少女との間にある距離の長さを知る。肺を絶望が満たしていく。

 その時だった。

 少女が、止まった。

 それは極限状態の五感が見せるスローモーションではなかった。何故なら久義は依然として体を前方に投げ出し続けていたし、彼が零した釘は地面に散らばり続けていたし、空を覆う雲の群れも流れ続けていた。

 少女を除く全てが、動き続けていた。

 そして、久義の指先が落下予測地点に辿り着き、ゆっくりと過ぎ去ろうとした瞬間。

 ぐるんと、少女が空中で体勢を変えた。脳天が、四肢が、それぞれ先程とは別の方向を示した。

 頭は斜め上。腕は真横。

 踵は、久義の頭。

 ガツンという衝撃音と共に、視界を閃光が走り抜けた。


「ふぎゃっ!」


 悲鳴が上がる。少女のものだ。彼女は生きていた。久義の大きな図体をまるまるクッション代わりにすることで。


「う、うごご……」


 呻き声が漏れる。久義のものだ。彼もまた生きていた。踵落としのダメージが想像より浅かったのだ。少なくとも、八階分の落下速度を上乗せした衝撃ではなかった。成人男性の通常の踵落としと同程度だ。普通に命取りであるが、久義は頑丈なので大ダメージで済んだ。


「……いったん、地面に下ろしていいですか」


 久義は這いつくばったまま、自分の背に乗った少女に尋ねた。

 どうして、屋上から落ちてきたのか。空中で止まって見えたが、あれは何なのか。聞きたいことは沢山あったが、とりあえずこの滑稽な体勢をやめたかった。

 太腿の裏のあたりで、声がした。


「お願いします」


 鈴の音を僅かに低くしたような声だった。

 お許しを貰ったので、できるだけゆっくりと這い出て、ふらふら立ち上がると、改めて少女を見た。

 背丈は百六十センチぐらいだろうか。フワフワとうねるライトブラウンの髪が、黒い地面にペタリと広がっている。色白でもなく色黒でもない、薄橙色の肌はきめ細かく、ほんのりと幼さを残す。顔はかなり整っており、結構な美少女であった。

 少女の琥珀色の瞳と視線が合う。眠たげな、やや半目気味の二重だ。


「……た、立てますか」


 久義はとりあえず、少女に手を差し伸べた。数秒の沈黙の後、彼女はゆっくりと掌を握った。久義ほどではないが、見た目以上に固い感触の掌だった。特に指の付け根のタコが凄い。


(竹刀ダコ、とか? 剣道少女なのかな)


 しばらく相手が立つのを待ってみたが、それ以上は何も起こらなかった。少女は黙って手を握りながら、横たわっていた。


(立ち上がるだけの体力がないのか?)


 まあ、屋上から落ちてきたのだ。自分がクッション代わりなったのを抜きにしても、かなりの衝撃だったのだろう。すぐには立ち上がれなくても無理はない。


「……ちょっと、おんぶしますね」


 それでも、ここにずっと寝かせておくわけにもいかない。久義はひとまず少女を抱き起こし、背負った。知り合いの医者が酔っぱらっている時、同じようにして持ち運ぶことが多々あるため、このような介助には慣れていた。


「とりあえず、この病院に入りましょうか」


「……それは、やめてください」


 背中でぐったりとしていた少女が、溢すように言った。

 何か、訳ありなのだろうか。


「いや、でも。一度、お医者さんに診てもらった方が」


「……だったら、別の病院に連れて行ってください」


 別の病院。

 久義は考える。この消滅可能性都市な甘倉に、屋上から落ちてきた人間を治療してくれる場所は、箱内病院以外にあったかしら。眼科、歯科、耳鼻科などはいくつか知っているが、そこに今の少女を連れて行ってもどうにもならないだろうし。

 一応、心当たりがないこともないのだが。


「……吉田診療所に、連れて行ってください」


 久義は驚いた。他でもない久義の唯一の心当たりが、そこだったからだ。

 しかし、あそこは開業医の態度が悪い政で、常に閑古鳥の鳴いている個人医院だ。よりにもよって、箱内病院ではなくそこを選ぶとは。


「……分かりました」


 まあ、当の本人が希望するならば止める訳にもいくまい。

 それに、あの病院は人気こそないし、職員も態度が悪いが、それでも信用には足る。

 吉田診療所の開業医とは、顔見知りなのだ。

 それこそ、匡と同じぐらい長い付き合いである。


「ここから、走って二十分はかかりますよ。それでも良いですか」


 少女は何も言わない。しかし、コクリと小さくうなずくのを、肩越しに感じた。


(大丈夫かな)


 不安を抱きながらも、地面に散らばった釘と石板を拾い上げて、ポケットに閉まっていく。あまり少女の身体を揺らさないよう、ゆっくりと屈みながら。

 その時、はらりと何かが落ちた。

 抓んでみる。薄黄色のクズだった。

 それが何なのか、久義にはすぐに分かった。

 藁クズだった。


 やってやんぞ。

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