8・さらに宇宙交差
栗栖香織が休日の惰眠を貪っていた時、突然彼女は現れた。
カーテンの隙間から昼近くの陽射しが差し込み、香織は夢と覚醒の間をふらふらしていた。
そこにふわりと降りた、とても綺麗な光。
ぼんやりと薄目を開け、香織は小さく呟く。
「あれぇ……。地縛霊じゃなかったんだぁ……」
そこにいたのは、バイト先のマンションでいつも会う、あの不思議な女性の幽霊だった。
霊に着いて来られることはよくあったが、彼女に対しては何の危機も感じなかった。あの場所から動ける霊だったのかと、少し驚いただけだ。
「……でも……どうしたの、急に……」
深く考えず、再びウトウトと目を閉じかけた時。
油断しきった香織の中に、いきなり彼女の意識が飛び込んで来た。
(えっ!?)
全身に鳥肌が走り、手足の温度が一気に下がって息が止まる。
(油断した油断した油断した!!)
慌ててもがいても、もう手遅れ。
香織の意識は彼女にガッチリと押さえ込まれ、もはや指一本動かすことも出来ない。落下の感覚があった。
(落ちる……!)
ふいに嗅ぎ慣れないにおいを感じて、香織はきつく閉じていた目を開いた。
途端、視界に全く別の空間が広がる。
そこはどこか、深い森の中のようだった。大きく繁った木々が一面に広がり、重なる葉の間から柔らかな木漏れ日が溢れている。
(どこ? ……あたしは)
意識がアイスクリームのように蕩けて、別の意識が流れ込みゆるゆると混ざり。
(何なの……これ)
香織の前には大きなキャンバスが置かれていた。足元にはたくさんの画材道具が並べられ、絵の具と薄飴色の瓶からは独特なにおい。
続きを描かねば、と香織は思い付いた。
今描いている絵は次の個展のメインになるかもしれない作品で、環境破壊に対するメッセージを織り込んだ、大切な作品だった。
(急がないといけない)
焦燥感に押されてキャンバスに挑んだ時、背後の草がカサリと鳴った。
鳥か、それとも鼠か。
振り向かずにいると、少しして再び草が踏まれる、カサリという音。
“さやか”
呼ばれて、ハッと振り返った。それが自分の名前だと、なぜかすぐに分かった。
振り向いた顔に何かの光が鋭く走り、一瞬だけ目が眩み。
次の瞬間、左肩に凄まじい衝撃を受けた。驚いて見開いた目に、ナイフを掲げた若い男の姿が映り、次いで赤い絵の具が鮮やかに散った。
(何!?)
絵の具だと感じたそれが自分の血だと理解する前に、腹に二度目の強い襲撃。
生々しく暴力的な音、体の内側から。
(やめて、痛い!!)
赤く染まった視界が瞬く間に闇色に変わり、苦痛と衝撃から逃れようと必死にもがき、叫ぶ。
(痛いいいぃぃっ!!)
気付くと、宙に浮かんで惨劇の続きを見下ろしている。
真っ赤な血の池に沈んだ自分を、若い男が一心不乱に切り刻んでいる姿を。
(ああ、やめて、顔は、顔は嫌、嫌あああああ)
狂いそうな思いの慟哭、けれど相手には届かなくて。
血塗れのナイフが乱暴に眼球をえぐり出し、こじ開けられた口から舌が、皮膚ごと切り裂かれた衣服の下から、乳房が腹が性器が…………
(うああああああっ!!)
男は、切り刻んだ肉を口にしていた。
恍惚の表情で咀嚼し、顔を真っ赤に汚しながら、瞬きもせずに飲み込んでいた。
(嫌、嫌、嫌あああっ!)
あまりの光景にパニックを起こしながら、それでも香織は必死に自分に言い聞かせた。
(違う違う違う! これはあたしの記憶じゃないっ!!)
場面が変わり、次には無惨な遺体を遠巻きに囲む、数人の男女の姿。
殺人者の男は後ろ手に取り押さえられ、呆然と空を見上げている。
近くで泣き叫んでいる女には見覚えがあった。バイトの面接をした、マンション管理人の母親とかいう女だ。
『お父様のせいよ! この子やっぱり、あの事件の時におかしくなってたんだわ!』
金切り声を上げる女を、夫らしき男が強く抱き寄せ黙らせる。
『とにかく、これはうちとは関係ないことだ。息子は何もしてないし、これは地元の変質者の仕業だ』
震えてはいるが、力強く決意に固い声だった。
『分かったら、早く警察に手を回せ! 金ならいくらかかっても構わん!!』
(何てことを……)
刹那、燃え上がるような憤怒と絶望が一気に意識を包み込んだ。
その激しさに香織は堪らず絶叫する。
(意味が分かんない!! いきなり何なの!? いい加減にしてよっ!!)
目に見えない戒めを全力で振り払う。
深く息苦しい水底から命からがら浮上するように、香織はようやく意識の表層に逃げ戻った。
(くっそ……)
精神の疲労というのは、肉体のそれとは違うリスクを孕んでいる。
全く予期せぬ不意打ちに相当打ちのめされはしたが、そこはただの凡人とは違う香織。数秒で心の安定を整え、臨戦体制で気を引き締める。
(ちょっと! あんた、今すぐあたしの体から)
出て行きなさい、と一喝するつもりだった。
しかし香織は、またもや予期せぬ光景を目にして、一気に覇気を失ってしまった。
(何で、このマンション……!?)
バイトで毎週一度訪れる高級マンション、それが今目の前にある、いや、今自分は車のドアを閉め、真っ直ぐにマンションに向かって歩いて行く所だ。
(何でここにいるのよおおおお!!)
僅かな時間だと思ったのに。死者の過去の記憶を見せられていた間に、体を操られてここまで来たというのか。
(有り得ない! 有り得ない! 止めて嫌、ここは)
内側で絶叫する香織に、女が初めて答を返した。
《ここは、私を食った男がいる場所》
(あ、あんたずっとここにいたじゃない! 何で? 今更あたしを引っ張り出してどうするって言うのよ!)
《止めるの》
(何を! つーか、こんだけの力を持ってるなら一人でやってよ!)
《必要だから、駄目》
(何がよおおおおお!!)
《肉体》
香織は颯爽とした足取りで、高級マンションのエレベーターに乗り込んで行った。