6・栗栖香織
今日は月曜日。
あたしにとって、一番割のいい仕事が待っている日だ。
早起きは苦手だけど、足取りも羽のように軽い。
あたしは昔から極度の飽き性で、一つの仕事が長く続いた試しがなかった。週三か週四程度のバイトを見つけては辞め、辞めては見つけ。
だけど今の仕事、大手企業の受付業務は長く続いている。
華やかで人に自慢出来るし、社員達からは可愛いがられるし、時給もいい。何よりも週二回だけの出勤でいいのが長続きの秘訣だ。
だけどもちろんそれだけでは金銭的に辛いので、この毎週月曜日だけの臨時バイトで補っているのである。
あたしは跳ねるように早朝の繁華街を抜け、髪のそよぎに開放感を感じながら目的の場所に急いだ。
そこは一等地に建つ、超高級セキュリティマンション。
憧れるけど、高根の花。美しい玄関ホール、広くて素敵なエレベーター、近代的かつ豪華極まりない部屋の内装。それらに間近で触れ合えるってだけで、あたしにとっては最高にセレブなシュチュエーション。
エレベーターに乗り込み、迷わず最上階のボタンを押す。片面ガラス張りの箱の中で、下に遠ざかっていく街を眺めるのがとても好きだ。
あたしは管理人専用空間になっている最上階で、一週間分の事務処理を任されていた。
簡単な内容だ。事務経験がある人なら、誰でも二時間かからずに終えられるだろう。
なのに、一度の仕事で貰える報酬は二万円。
破格値もいい所だ。求人募集には週一度の事務としか書いていなかったので、面接で報酬を聞いた時には、正直、怪しいと思った。
一応理由を尋ねた所、素っ気なく返された答は『皆なぜかすぐに辞めてしまうから』。余計に怪しい。
「なぜこんな高待遇で辞めてしまうんですか?」
『さあ? 体調を崩したとか、変な物を見たとか、毎晩変な夢を見るようになったとか』
「それって」
『ああ、中には最上階に降りた途端に逃げ帰った人も』
「幽霊?」
『あたくしはそんなモノ信じておりませんけどね』
信じていないと言いながらも、管理人の母親というその人は、明らかにマンションに出向くことを避けている風だった。
大体、住み込んでいるはずの管理人は何をしているのか。事務処理なんて、管理人が済ませればいい話ではないか。
怪しむ気持ちよりも、持ち前の性格で好奇心が圧勝した。
それに何より、あたしは。
快い到着音に促され、あたしは最上階管理フロアに降りた。
他のフロアとは趣の異なる事務的な廊下では、すでに掃除役のおばさんが仕事を始めていた。
「白石さん、おっはよー! あれ、それは?」
洗濯物を乗せたワゴンを指差して聞く。別の人の仕事だったはずだからだ。
「おはよう。間宮さんがコレなのよ」
おばさんが胸の前でバツ印を作ってみせ、あたしはまたかと苦笑いする。
「どうしてこんないい仕事、みんなすぐに辞めちゃうのかねぇ」
理解不能とばかりに首を傾げるおばさんに相槌を打ちつつ、しかしあたしにはその理由が分かっていた。
初めて最上階に降りた時、全身に突き刺さるような強烈な悪寒に、あたしは凄まじい衝撃を受けたものだった。
フロア全体を覆う異質な気配。目を凝らすと、その邪悪な淀みが確かに見える。
霊感、第六感、呼び方は知らないが、あたしには幼い頃から特別な物を見る力があった。
それは母や姉も同じで、先祖の中に功名な巫女がいたとか何とか。
とにかく最上階に溜まった邪気は普通ではなかった。分からないまま、体調や精神に影響を受けるのも無理はない。
「白石さんは超ーっ強いよねー!」
奇跡的に鈍感なおばさんの肉厚な肩を叩き、あたしは笑いながら事務室に向かった。
重圧は強いものの、今の所その邪気は人を襲うような物ではない。
死者の怨念やら何やらだったら、普通は生きた人間を引き込もうとか、何かしらの悪さをするものなのだが。
ここの気配はただこの場所に存在しているだけ。出所も分からない。
入った人間は大概悪い影響を受けるが、しかし邪気が何かをしているわけではない。相手が勝手に感じ取り、怯えているだけに過ぎなかった。
(本当に不思議)
あたしは預けられた鍵で事務室に入ると、奥のブラインドを上げて壁一面の窓から朝の光を取り入れた。
丸いテーブルの上には、管理人が置いて行った一週間分の書類や請求書。
「ねえ、あんたら朝陽とか嫌じゃないの?」
あたしは目を懲らしながら邪気に話かけてみるが、もちろん返事は無い。朝陽の中をゆっくりと漂うだけ、良くも悪くも変化なし。
「変わり者よねー、あたしもだけど」
丸っこい革張りのデザインチェアにドサッと背中を預け、あたしはパソコンを起動させて作業に取り掛かった。
途端、スッと後ろを流れる人の気配。
あたしは目だけを動かして気配を見る。スルスルと周囲を回るそれは、若い女の姿をしていた。
あたしと邪気の間に割り込むように動き回り、時折虫を払うような仕草をする。
「あたしなら大丈夫ですよー? ありがとうです」
言うと女はしばしあたしをじっと見詰め、そのままスッと陽に溶けて消える。これも毎度のことだった。
あたし含め、ここに関わる誰もが変わり者だ。No.1は、恐らく会ったこともない管理人だろうけど。
あたしは家賃の引き落とし状況をチェックしながら、一人の賃貸契約者の名前の所で目を止める。
折原俊一。
最近気付いたのだが、彼はあたしが受付嬢をしている会社の社員だ。
あの若さでこんな所に住んでいるなんて、さすがは一流企業のエリートと言われるだけのことはある。
関心すると同時に、最近見る彼の様子が少しおかしいことが気になった。
目の下にうっすらと隈を作り、露骨に疲れの抜け切らない顔をしている。
仕事が忙しいだけかもしれないが……。彼はここの二つ下のフロアに住んでおり、もの凄く感が鋭い質だったら、邪気の影響を受けていてもおかしくはなかった。
(考え過ぎかなー。こないだドリンク渡してみた時も、変な気配は感じなかったし)
まあいいか、と、あたしは作業の続きに意識を戻す。
早く終われば早く帰れる。
いやに近く見える快晴の空を眺めながら、あたしは午後の予定を考えて頬を緩めた。