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3・管理人

 今日もまた朝が来る。


 詰まらない一日の始まり。



 顔を洗って短く刈った髪を整え、ドレッサーから適当なシャツを選ぶ。


 パリパリに糊付けされた清潔なシャツ。


 毎週月曜日に、母が寄越す係の者が入れ替えていってくれる。興味はない。


 僕はさして予定も書かれていない手帳を左手でめくり、右手で電話の子機を取った。


 短縮ボタンを押していつもの番号にモーニングコール。


「……」


 僕はここ、都心からすぐの素晴らしい立地条件・抜群のセキュリティー・お洒落な外観に恵まれた高級マンションの管理人だ。


 もちろん自分で築いた地位ではない。資産家の両親が、三十を過ぎても宙ぶらりんでいる末息子を心配して与えた、形だけの役割である。


 大切なデータの管理や家賃の徴収その他など、実の所、誰がやっているのかも知らないのだが……。


 やはり興味は、無い。


「……」


 きっかり25回コールしてから電話を切る。彼女は出なかったが、最近はいつものこと。


 仕事絡みの付き合いで行ったクラブで、たまたま出会った一匹の蝶。気まぐれなのは仕方ないと諦めている。


 このマンションの一室を無料提供することも、朝のモーニングコールをすることも、彼女を身近に感じたいために僕が自ら提案したことだ。


 囲っているとか、世話してやっているとか、そういう下世話な感情は無い。




 僕はひとまず先週輸入したばかりの希少なコーヒー豆を丁寧に挽き、少し濃く落として香りをゆっくりと楽しんだ。


 手に持ったカップからコーヒーの香りを吸い込み、朝陽に照らされた街を最上階のバルコニーから見下ろす。


 こんな静かな朝の光を浴びていると、決まって幼い頃のことを思い出した。


 特に鮮やかな記憶は、小学校低学年だった頃のこと。


 当時エセ冒険家だった僕の祖父は、本来は入国を許されていない国ばかりを選んで旅して回っている変わり者だった。


 金に物を言わせたばかりではない。警察関係者や政治家など、様々な伝手を使ってそれを可能にしていたということは、大人になってから知ったこと。


 そんな旅を親族達はみな嫌がっていたが、僕だけは違った。喜んで同行する僕を、祖父はとても可愛がってくれたものだ。


 人がほとんど入ったことのない土地、そのクラクラするような青臭さ、不思議に張り詰めた透明な空気を、僕は純粋に愛した。


 とにかく違法な旅だったから、長年問題が起きなかったことの方が不思議だ。


 某国の豊潤な森を数人のガイドと共に見て回っていた時のこと、ガイドの一人がふと話した内容に興味を持ち、祖父が更に奥深くへ踏み込むことを望んだのが始まり。


 怯んで去った者を除いて、二人だけガイドが残った。今思えば、その二人は物事の真の危険を見落とした無能者、何の役にも立たない素人でしかなかった。


 祖父と僕は、そして当然のように行ってはいけない部分へ入り込んでしまう。


 ガイドが道を見失い、さ迷うこと二日。疲れ切った状態で、僕達はある部族に出会った。


 褐色の肌に泥や葉や実で飾りを施した民族。石を削って作った古代さながらの槍を向けられ、ガイドが怯えて発砲した。それが良くなかった。


 手から火を噴いて仲間を傷付けた僕達を、彼らは神、もしくは悪魔といった超存在に認識したらしい。(しかしあくまで、無事帰国してから理解したこと)


 疲れと緊張と恐怖でただボウッと成り行きを見守るしか出来ない僕達の前で、彼らは奇妙な歌を歌い踊り踊り踊り、喧騒の最中に愛らしい少女を引き立てて来た。


 他の者のような泥の化粧や装飾品などは一切身に付けておらず、少女はひたすら泣きじゃくって非力ながらも抵抗していて、しかし男達に難なく捻じ伏せられてしまい、木の台の上で悲痛な叫びを何度も上げて何度も何度も何度も何度も。


 叫びはやがてグロテスクな絶叫になり、その頃になってようやく僕は気付いたのだ、少女が。


 生きながら、解体されていることに。


 そして激痛に悶絶する少女を背景に、恭しく僕達の前に真っ赤な少女の肉が差し出され……


 それは彼ら部族にとっては、ごく当然な行いだった。


 深い森に住む彼らにとって、最も強く絶対的な存在は肉食獣。豹でもライオンでも関係ない、肉を喰らう獣は彼らにとっては全て神の使い。


 すなわち肉を喰らう者こそが神であり、神は肉を喰らうのが当然なのである。


 僕は情けなくも失神してしまったのでその後のことは知らないが、結果的には、先に帰ったガイド達の通報により、警察が僕達四人を助け出した。


 ただ、不思議に無事逃げ延びたことへの喜びは少なく、いつまでも重いわだかまりが胸の奥に残り続けている。


 それはすなわち、口にすることの無かった少女の肉に対する未練。自分の為に刻まれた少女の肉の味、それを知らないことがいつまでも心に引っ掛かっていて。


 自分でもおかしいと分かっている。


 幼年期に衝撃的なシーンを見たことがトラウマとなり、恐怖感を紛らわす為に感情をすり替えているのだ――、そんな風に自己分析してみたこともあった。


 しかし……。



 僕は堂々巡りの回想を断ち切り、爽やかなバルコニーに背を向けた。


 コーヒーの香り漂うリビングダイニングは、必要最低限の物しかなく、ひどく殺風景でガランとしている。


 僕にとっての生活を、そのまま具体化させたかのようだ。


 僕はコーヒーカップをテーブルに置き、広々とした部屋を横切って奥の扉を開いた。約十畳分ほどのそこは、本来ウォークインクローゼットとして作られた空間だ。


 僕はその閉鎖された空間を、愛しい人の形見で満たしていた。


「ああ……」


 そこの濃厚で愛しいにおいを感じる度、僕は深い恍惚に声を上擦らせる。


 天井には空と雲。正面には花と草。左壁には月。右壁には太陽。


 それぞれテーマ別に分けられた、それは美しい大小の油彩だった。


「おはよう。今日もいい天気だよ」


 ライトアップされた一面の絵を眺めながら、僕は誰にともなく呟く。


 零れ落ちそうな自然の潤いを湛えたその絵は、僕が愛した女性画家の作品だった。


 常に自然の息吹をまとい、現代の汚れなど微塵も感じさせない女性。僕は小さな個展で出会ってすぐ、その魂の透明さに惹かれた。


 人の欲や傲慢さとは全く無縁の。


 人でありながら自然と一体になった、まるで生まれたばかりの緑の女神……。


 生贄として差し出された森の少女、一人だけ何の飾りも身に着けない純粋な裸体が、女性画家の汚れ無さと重なって交じり合う。一つの神々しい光となる。




 僕は正面の一番大きな一枚に触れ、右下に残された彼女のサインに恭しく口付けた。


 “SAYAKA.U”

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