9・宇宙融合
西田紗枝はゆっくりとバッグの中身を確認し、三度それを繰り返した後、自室を出た。
紗枝はよそ行きのドレスを着ていた。派手ではないが、シックで艶めいた黒のサテンドレス。喪服の意味を持たせていた。
(さやか姉さん)
胸の前でバッグをギュッと抱き締め、何度か深く息を吸ってから階段を昇り始める。
管理人には、昨日の夜に電話で約束を取り付けてあった。相談があるので明日時間を貰えないかと言うと、二つ返事であっさり承諾してきた。
ようやく、待ちに待ったこの日が訪れたのだ。
気持ちを落ち着けるように、一段一段、紗枝はゆっくりと階段を踏み締めて上に向かう。
†††††
自然音楽を流した明るい室内で、管理人は静かに窓の外を眺めていた。
もうすぐ紗枝がこの部屋に来る。昨日電話を受けた時には驚いたが、恐らく金絡みの相談だろうと検討を付けていた。 管理人にとって、理由などはどうでもいいこと。
そろそろ彼女を……と私案していた矢先に、初めて向こうからの誘い。このあまりのタイミングの良さには、何か神秘的なものすら感じていた。
奇しくも今日は、愛するさやかの命日なのだ。
(君が呼んでくれたのかい? ……さやか)
子供が親に甘えるような表情で、管理人は閉じた瞼の向こうに心の中で囁きかけた。
†††††
出社しようとしていた折原俊一は、エレベーターで予想外の人物と遭遇した。
「え? 栗栖さん?」
栗栖香織。俊一が勤務する会社の受付嬢だ。
その彼女がなぜ、こんな時間にこのマンションにいるのか。
香織の化粧気のない顔にはいつもの笑顔はなく、無表情な目が冷たく俊一を眺めている。
「えっと……」
香織はふいと視線を外すと、挨拶一つ無く上へ昇っていってしまった。
(何なんだあの態度……)
最上階で点灯したままの階数ランプを見やりながら、俊一は戸惑い紛れに毒づいた。
(この間の事といい、あんな女だったなんて幻滅だ)
改めてエレベーターを呼び直した俊一は、しかしそこで動きを止めた。
最上階には管理人しかいないはずだった。資産家の息子でありながら、三十路過ぎまで親のすねをかじり続けている腑抜け男、有名な暇人だ。
そんな所にあんなラフな恰好で、まして化粧もせずに何の用があるというのか。
(管理人と知り合いなのか?)
妙だと思った。なぜ最近こうも、あの受付嬢と変な関わり方ばかりをするのか。
さっきの態度もそうだ。いくら勤務時間内ではないからといって、職場の社員にあんな対応は有り得ない。
完全無欠だった自分の日々を掻き乱している元凶、その臭いを感じた。勘だ。
栗栖香織。マンション。管理人。栄養ドリンク。目の下の隈。抜けない疲れ。エリートな自分。
様々な材料が俊一の意識上に浮かび、それぞれの意味をちらつかせながら回転した。
(ここの管理人なら、賃貸者の仕事に関して色々知っていても不思議はない。親の資産とはいえ、金も持っている)
独自の論理に基づいて、次々に整頓されていく記憶の材料。
(考えてみれば……、敵意剥き出しの馬鹿女が、たまたま隣の部屋に越して来たというのも不自然じゃないか)
だがしかし、それが彼女本人の意思によるものでなかったなら。
隣の女も受付嬢も、渡された報酬に目が眩んだだけの、単なる道具だったとしたなら。
(それなら、栗栖香織のさっきの態度も理解出来る)
成功者である自分の間近にいて、暇を持て余した惨めな道楽者。嫉妬溢れる視線で自分を見詰め続けた、本当の敵。
(管理人が全ての黒幕だったとしたなら……、全ての辻妻が合う!)
†††††
さやかに押さえ付けられたままの香織の意識は、最上階に下りてすぐ、例の邪気に触れてその濃厚さに怯んだ。
体を自由に出来ていた時には気付かなかった。肉体というプロテクトが、いかに強靭な護りだったかを、香織は今になって初めて知った。
(ひぃ、ひいいいぃっ!)
フロア全体に満ちていた邪気。こうまでも垂れ流しにされていた醜い歪み、その根源が“生きた人間”だったという事実。
そのあまりに救い様のない現実に、剥き出しにされた香織の精神は耐え切れずに絶叫した。
(管理人の所には行きたくない!! 止めて止めて止めて止めて!! あんな狂人の所に行ったらあたしはあたしはあたしぁああぁ!!)
恐怖に乱れた香織の意識を易々と捩伏せると、さやかは真っ直ぐに通路を進んで行った。
カツカツ、カツカツと、靴音を生身の耳で聞くのは本当に久しぶりのことだった。その生の感覚は生きていた頃の記憶を強く刺激し、人間らしい感情を呼び起こすには充分過ぎた。
さやかは惨殺された後も、生前同様に神聖な魂を保ち続けていた。
殺された時の苦痛や絶望に苛まれ成仏出来ずにいながら、他者に憎しみを向けることは決してせずに。
それ所か自分を殺した相手を憐れみ、その邪気から他人を護ろうとさえしていた。
それはさやかの天性の純粋さゆえであり、何の見返りも求めない行動だった。それだけ、さやかの魂には曇りが無く真っ直ぐなのだった。
それ故に。
一つの確固たる目的を持った今のさやかには、ほんの些細な迷いも無い。
(妹には手を出させない)
†††††
大宇宙の彼方では、いつも華々しい衝突や融合が行われている。
それは日常茶飯事で。
小宇宙同士でも同じこと。
今日この晴れた美しき昼下がり、とある高級マンションの最上階、独特な宇宙達が集まって、今正に衝突せんとピリついている。
(姉さんの仇を取る為に)
(食してあの娘と一体になる為に)
(奴が黒幕だと暴いたら、その時は)
(愛しい妹を護る為に)
宇宙、融合、カウントダウン。
今全ての意思が一つにまとまり、点が線で結ばれた。キッチリと、それすなわち。
《 殺 す !! 》